4【SIDE*R】


The  opening  Ceremony

April  8

 

季節は三月から四月に変わり―――ついに待望の始業式が到来した。

先輩と知り合って約半年。

俺は先月、バレンタインという知名度抜群の国民的行事に便乗して、小原先輩に自分の気持ちを伝えた。

そして更にその一ヶ月後、はじめて彼と(……いや、あれはかなり一方的だったことが否めないので、彼と、ではなく、彼に、と言った方が正しいかもしれない)キスをした。

最初にしたのは本当に挨拶みたいな軽いものだったけど、二度目にしたのは紛れもない情欲を含んだ性的なものだ。

多少強引だったとはいえ、嫌われることを覚悟で強行したのは正解だった。

あの日を境に、先輩の態度が目に見えて明らかに変わってきた。大きな進展こそなかったものの、小原先輩の中での俺の立ち位置が『気が合うただの部活の後輩』から『気が合う自分に特別な好意を寄せる年下の男』へ昇格したのは間違いない。

今迄だったら気にも留めないような何気ない接触だったり、与えられる言葉や視線に先輩が逐一過剰に反応しているのが、一緒にいて手に取るように伝わってきた。

自分を意識して照れたり恥ずかしそうにしている姿を見る度に、胸の奥がぐっと締め付けられるような甘い痛みを感じて、とても切ない気持ちになった。

今よりも沢山、まだ見たことのない色々な先輩の顔が見たい。そして自分のことをもっと知って欲しい。自分が彼の事を想う半分でもいいから、気持ちを返して欲しい。

出会ったときに感じた情動はあの日よりも更に力を増して、自分の中で獰猛に息づいている。それはまるでコントロールの出来ない、強大な嵐のようだった。

春休みに入ってから、先輩の気持ちが自分に向き始めてきた事を確信した俺は、思い切って勝負に出た。

いくつかの罠を先輩に仕掛けてみると、予想以上の成果が得られた。

薄暗い映画館の中で初めて先輩が俺の気持ちを受け入れてくれた時には、本当に天にも昇る心地だった。

帰り際、返事が欲しいと言った時の顔を見れば、答えは聞かずとも明白だろう。きっと先輩は今日、言葉で言えない代わりにお揃いの腕時計をしてくるはずだ。 

あの時俺が、高校生が持つには聊か高価な物をプレゼントしたのは、勿論先輩を喜ばせたいという気持ちもあったが、それだけじゃなく『自分の気持ちは本気だ』という強い意思表示をしたかったからだ。

そしてまた先輩の性格を考慮して、素直に好きだと返してくれる可能性は低そうだから、きっかけに使えればと考えていた。

多少の出費は御愛嬌。それよりも早く明確な答えが欲しかった。先輩を自分だけのものにする権利を手に入れたかった。 

このタイミングを、絶対に逃したくはなかった。

予定ではもう少し時間をかけて、ゆっくりと先輩の心の中に自分の存在を植えつけていくつもりでいた。

そしてそれは、鮮やかな実を付けながらも、一瞬の情熱を灯した後直ぐに枯れてしまう刹那的な大輪の華ではなく、深く根をおろして細く長く成長を続け、何者にも揺るがない、半永久的に生きながらえる大樹のような存在でなければ意味が無い。

わかっているのに、先輩の気持ちが自分に近づいているのが目に見えて感じられた時、先輩を好きな気持ちがもう抱えきれないくらい大きくなってしまって。もっともっと、深い所まで全部を確かめたくて。無理矢理押さえつけている理性の箍が、幾度と無く外れてしまいそうになった。

だけどそんな苦行の時間は今日限りでもう終わりだ。

―――あと少しで、その焦がれた相手がようやく手に入る。

カーテンを開けると、東の空から生命の象徴たるものが一段と眩い光を放ちながら、天の頂きをめがけてゆるりと立ち昇ってくるのが見えた。これまでの人生を振り返ってみて、こんなにも朝が来るのが待ち遠しかったことが果たしてあっただろうか。

ようやく姿を見せてくれた太陽に投げキッスをしたい気分で、携帯を手に取り、時刻を確認する。

……先輩に会えるまで、あと、数時間。
今日は春らしい穏やかな晴天に恵まれた麗しい大安吉日だ。

きっと俺が今まで生きてきた中で、最も素晴らしい一日になるだろう。



*****



(一分でも一秒でも早く会いたい)

逸る気持ちが抑えきれなくて、いつも迎えに来る時間より二十分も早く着いてしまった。

(先輩、もう用意できてるかな)

最上階で止まったまま、中々降りてこないエレベーターに痺れを切らして、横にある非常階段を猛スピードで駆け上る。

身体から羽根でも生えたのかと思うほど軽い足取りで先輩の部屋の前まで来た俺は、顔が笑ってしまいそうになるのを何とか堪えながらチャイムに手を伸ばした―――が、それを押すより一瞬早く、玄関のドアが内側から勢い良く開いた。

「えっ?!」

「……あ、」

目の前には驚いた顔でオレを見上げる先輩がいた。

「……っ、なんでお前、はっ、早いだろ、時間、まだ……!」

制服の上に淡いペパーミントグリーンのエプロンを着けた先輩は『心底焦っています』という風にしどろもどろになりながら頬を真っ赤に染めている。その両手には、半透明の大きなビニール袋が抱えられていた。

「……どうしたんですか、それ」

「見ればわかるだろ。今日ゴミの日なんだよ!」

「……っていうか、俺がどうしよう……」

「まだ時間あるから、下に捨てに行こうと思って」

「ちょっとそれ、反則ですよ先輩……」

「へ……っ?」

恥ずかしそうに俯いて、耳まで赤くしている姿を間近で目にした俺は、つい我慢できずに両手が塞がれている先輩を、手加減無しで思いっきり抱きしめた。

「ふ、わ、ワアアアアっ!!」

先輩が悲鳴のような声を発した直後、ドサッ、と地味な音を立てて、左右の足元にそれぞれ二つの袋が落下した。

(……クッソ、もう、めっちゃくちゃ、可愛い)

エプロン姿なんてはじめて見た。

前見たパジャマ姿も可愛いかったけど、これはまた個人的にかなりツボにくる格好だった。

(しかも早朝のゴミ出しって、それもう若奥さんにしか見えないよ先輩)

ラッキーな不意打ちだ。今日のような一生の内に何回あるかわからない目出度き日に、こんな素晴らしいものが見られるなんて、と俺は心の中で神に感謝した。

一人感無量の境地に浸っていると、自由になった両手で俺の顎を押し返すようにして、先輩が腕の中で暴れだした。

「この、馬鹿……ッ、離せよ!」

「うわっ、ちょっと、先輩!?」

危ないからそれ!と俺は慌てて先輩の両の手首を掴んだ。

「あ……」

捕らえた左手に今までなかった硬い感触を感じて、ハッとした俺は視線を下に落とす。

ワイシャツが捲くられた、腕の先。先輩の左手首には、俺がプレセントしたロレックスの時計がつけられていた。

「……ッ!」

先輩は俺の視線に気づくと、慌てた様子で俺の腕を力任せに振り払った。顔を横に逸らしているけれど、さっきよりも更に真っ赤になっている耳は隠せない。

俺は嬉しさに思わず叫び出したいのを必死で堪えながら、大きく深呼吸をして、先輩に最終確認をする。

「してくれたんですねこれ……ありがとうございます。約束通り、これが先輩の答えだと思って、いいんですよね……?」

「……いーよ」

そっけない言い方ではあるものの、ずっと欲しかった返事がようやく聞けた俺は、もう一度先輩の手を取り自分の身体に引き寄せた。

細く華奢な腰をきつく抱きしめて柔らかな髪に顔をうずめると、桃のような甘い香りが鼻腔を擽る。この腕の中のひとが全部自分のものなのだと思うと、胸が苦しいくらいに高揚して、心が鮮やかな歓喜一色に染まった。

「先輩、好きです。本当に……俺今、死にそうに嬉しいです」

「……ッ、わ、かったから、いい加減に離せって!朝っぱらから玄関先で、し、しかもこんな、ゴミに囲まれてすることじゃあないだろ……!?」

ゴミに囲まれていようがなんだろうが、俺の頭の中は花や蝶が大量に舞っていて、そんなことは全く気にならなかった。

二度目の抱擁に慌てまくった先輩は、俺の背中をバシバシと遠慮なく殴打してくる。

大して痛くも無い攻撃を幸せな気持ちで受けとめながら、俺は腕の中から先輩を解放した。

「じゃあ今は我慢して、お楽しみは放課後にとっておきます……だから、先輩」

一旦は離した先輩の両肩を再びそっと引き寄せて、目を覗き込むようにしながら「今日の帰り、先輩の家に寄ってもいいですか……?」と望みを口にすると、先輩は恥ずかしそうに目を伏せて、ぼそぼそと呟いた。

「……寄って、なにすんの」

「ないもしない、とは言いませんけど。なにもかも全部する、とも言いません。今日はまだ」

「……ほ、本当だろうな?」

上目遣いでおずおずと確認してくる先輩を安心させるように、出来るだけ爽やかな笑顔を作って、最も肝心な部分に念を押しながら頷いた。

「今日はまだ≠ナすけど」

「わざわざそこ強調しなくていいから!……あーほら、お前が馬鹿な事してるからもうこんな時間になっちゃったじゃん。ちょっと安齋、下のエントランス出た所にコレ捨ててきて。オレ鞄用意してくるから」

「はーい」

「返事ははい≠セって前も注意しただろ。それと顔がだらしない。しゃきっとしろ、しゃきっと!」

「はい、はい」

もっと先輩に叱られたくてわざとちゃらけた返事をすると「はい≠ヘ一回で短く!」と速攻で叱咤が飛んできた。

以前同じやり取りをしたときはまだ、ただの部活の先輩と後輩だった。だけど今は。

(先輩に朝のゴミ出しを頼まれるようになるなんて……俺も出世したなあ)

ジワリとした喜びが胸奥からグッとこみ上げてくる。

「ねえ先輩、俺たちまるで新婚さんみたいですね」

「ああ?馬鹿なこと言ってないで、早く行ってこい」

「あはは。じゃあ先輩、行ってきまーす」

たかが一階にゴミを捨てに行くだけなのに、新婚ごっこを気取って声を掛けたら、先輩は「……行ってらっしゃい」と控えめな声で返事をしてくれた。

(……っ、小原先輩……、可愛すぎる)

先輩の反応に有頂天になった俺は、行ってらっしゃいのチュウはしてくれないんですか?と訊いてみた。が、流石にこれは調子に乗りすぎだったらしく「お前朝から死にたいのか」と先輩からドスのきいた物騒な言葉が返ってきた。

「なんだ残念、御褒美が欲しかったのに」

苦笑して玄関を出て行こうとしたら、背後から思いもよらない言葉が耳に届いた。

「……今は時間無いから、学校終わったらな」

慌てて後ろを振り返ったけど、先輩は既に背を向けて部屋の中に入ってしまった。

(やばい、顔がにやける。チョー最高)

これで益々放課後が楽しみになった俺は、未だかつて味わったことの無い幸福感を全身で噛み締めながら、いそいそとエレベーターに向かった。



*****



(あれ……いない?)

始業式が終わり、今日から新しく変わった三年の教室へ一目散に駆けつけたが、先輩の姿はどこにも見あたらなかった。このクラスになって初日のため、机の場所がまだわからないので、鞄の有無が確認出来ない。

「あの……すみません。小原先輩ってどこに行ったか、知りませんか?」

丁度入り口から出てきた同じクラスの3年生に訊いてみると、教室の中を指差しながら先輩の机の場所を教えてくれた。

「え?ああ、姫ー?えーっと……教室にはいないみたいだな。でも鞄はあるからまだ帰ってないよ。ほら、廊下側から二列目の一番後ろが、あいつの席」

「どうもありがとうございます」

軽く会釈して御礼を述べると「いつも姫のお迎えごくろーさんだな、王子!」と言って豪快に笑いながら、すれ違い様に俺の背中をバシッと叩いて教室を出て行った。

二年の終わりから毎日番犬の如く小原先輩を教室まで迎えに来ていた俺は、元々校内で名が知られていた事もあり、今では先輩の友人達の間でもすっかり有名になってしまった。

(この『王子と姫』の呼び名も、いつの間にか定着しちゃったな……)

他校の女子生徒達が俺に『王子』という非常にわかり易いニックネームをつけている事は知っていたが、いつしかうちの学校でもそれが浸透していたようだ。

先輩は俺のとばっちりを喰らう形で、『王子』と対の『姫』という名で呼ばれるようになっていた。

人様いわく、王子が迎えに来るから姫。という極めて安直な決定方法らしい。

小原先輩は自分が姫と呼ばれることに対して異常なまでの拒絶反応を示していたけど、俺は先輩のイメージにぴったりなその呼び名を密かにとても気に入っていた。

(でもこれ本人の前で呼ぶと、確実に怒らせちゃうからなぁ……似合ってるのに)

「……こら、入り口に突っ立ってんな。お前でかいから通行の邪魔」

一人思案に耽っていると、背後からまさに今頭の中で思い描いていた、お姫様の……先輩の声がした。

「小原先輩!良かった……教室にいなかったから、一瞬逃げられたかと思っちゃいましたよ」

「用事があって職員室に行ってたんだよ。逃げるって……何のことだ?」

「いえ、なんでもないです。用事はもう済んだんですよね?じゃあ帰りましょう」

「………?」

不思議そうな顔で首をかしげて教室の中に入っていく先輩を、俺は内心冷や汗を流しながらドアの外で待った。

(今うっかり本音が出た、危なかったな)

下心満載でいるせいかどうも急いてしまいそうになる。

あまり下手な事を言って先輩を意識させすぎてしまうと、家に入れてもらえなくなるかもしれない。

なるべく平常心を保たなければ……そんな俺の不埒な心情など露知らず、先輩は鞄を持って俺の元へやって来た。

「お待たせ。今日、どうする?まだ時間早いし帰りにどっか寄ってくか?」

「これからですか?俺は特に、寄りたい所はないですけど」

(それよりも早く先輩と二人きりになりたい)

だけどそれを正直に吐露したら警戒されてしまいそうだ。

なんとか寄り道しないでまっすぐ家に帰る方向へ話を進めなければならない。教室を出て玄関に向かう途中、俺はそれとなく先輩に他の話題を振った。

「先輩、俺お腹すいちゃったんですけど」

「じゃあマックでも行くか?」

「いえ、今マックって気分じゃないんで。……それより俺、先輩の手料理が食べたいです」

「ええっ?急に言われても……材料買ってないから、大したモン作れないぞ」

「いいです。先輩が作ったものなら、なんでも嬉しいから」

「……あり合わせで作るからあんまり期待はするなよ?」

「はぁーっ……、はい!」

誘導作戦が見事成功して、俺は浮かれた気分そのままに、つい語尾を伸ばしそうになる。途中で慌てて言い直すと先輩は片眉を下げるようにして、小さく笑った。

(あーもう……先輩超可愛い。早く抱きしめて、キスしたい)

大きくなる煩悩を理性で抑えながら自転車置き場に着くと、いつものように自分の鞄を先輩に渡して自転車の鍵を開けた。

二人乗りは一応交通ルール違反なので、校舎を出るまでは面倒だけど手で押しながら歩いていく。

他の生徒は既に帰ってしまったらしく、誰もいない裏庭の中を二人きりで和やかに談笑しながら通り過ぎた。

門の前に差し掛かかり、先輩に後部座席へ乗るよう促した―――その時。

「律……っ!」

(―――え?)

校門の影から突然何かが体当たりするように突進してきた。

それが目と鼻の先まで近づいた瞬間、俺は身体中の血液がサーっと凍るような心地に見舞われた。

(……嘘だろ)

確かに見覚えのある顔。声。自転車のハンドルを握っているため、両手が塞がっている俺の腰に、両腕を巻き付けるようにして正面から抱きついているのは……少し前まで自分が熱心に愛の言葉を囁いていた女だ。

「全然会えないからここまで来ちゃった。ねえ律、どうして最近連絡くれないの?」

招かざる人物の登場に俺は身じろぎ一つ出来ずに固まり、歯噛みしたい気分で悄然と立ちつくした。

「電話にも全然出てくれないし、予備校が忙しいって言ってたけど、いつまで?今日なら時間あるんでしょう?」

一方的に捲くし立ててくる甲高い声に頭をガンガンと遠慮なく殴打されて、くらくらと眩暈がしてくる。

(よりによって、どうして今日なんだ)

「……リナ?……な、んで、え……?」

いぶかしむ声音にハッとして、後ろを振り返った。先輩は状況がまだ完全に呑み込めていないらしく、怪訝そうな表情でこっちを見ている。

まるで絵に描いたような修羅場だ。事態はこれ以上無い程、最悪だった。

「……なんだ悠生、いたの。久しぶり」

女は俺のすぐ後ろにいた先輩に目を留めると、俺に話しかけた時のような猫なで声とはうって変わり、まるで置物にでも接するような無機質な声音で、おざなりな挨拶をした。

「……なに。……二人とも、知り合いなのか?」

どういうことだ、と探るような響きで以って、先輩が俺達二人の関係を訊いてくる。俺が口を開くより早く、腕の中の女―――秋川リナは俺の身体にますます強くしがみ付いて、先輩を挑発するように声高に言い放った。

「知り合いじゃない。付き合ってるの、あたし達」

「付き合って……る?」

リナの言葉を呆然と口にした先輩の顔色が、一瞬にして変わったのがわかり、俺は叫ぶようにそれを否定した。

「違います先輩……!」

だけど今度は俺の言葉に逆上したリナが、身体を離して俺を容赦なく追及してきた。

「ちょっと、違うって何よ!『悠生なんかやめて俺と付き合おう』って誘ってきたのはそっちじゃない!前は毎日好きだって言ってくれたのに、最近はメールもくれないし……!」

目を吊り上げて明け透けな言葉で俺を糾弾する女の口から、決定的な証拠が次々と暴露されていく。

俺が仕掛けた最大にして最低な罠は、史上最悪の形で、よりによって一番知られたくなかった相手に知られてしまった。

―――あともう少しで届くはずの掴みかけていた光が、瞬く間に遠ざかっていく。

バン!と顔のあたりに衝撃が走った。先輩は持っていた鞄を俺に投げつけた後、踵を返して校舎の方へと走って行く。

「……っ、小原先輩、待って……!」

「ちょっと、律!……きゃ!」

俺は突き飛ばすようにして、両手を塞ぐ自転車から手を離した。ガシャンと派手な音を立てて、自転車が横に倒れる。

「もう、なによ急に。危ないじゃない!」

「……金輪際、お前とはもう会わない。小原先輩にも、一切近づくな」
 隣でぎゃあぎゃあと喚き立てている、忌々しい騒音の発信源に捨て台詞紛いの最後通牒を突き付けると、俺は全速力で先輩の後を追った。

 

The  Day  Of  The  Past

February  From  September

 

――――時は今から約半年ほど前に遡る。

 俺が初めて先輩と話をした時。つまり俺が先輩に一目惚れしたその日、先輩には既に他校に付き合っている彼女がいるらしい事を知った。

俺は帰宅してからすぐに、バスケ部の助っ人を頼んできた先輩に電話して、その『彼女』についての情報をそれとなく聞き出していた。

『悠生の彼女?あー……確か聖女の二年生だって前に聞いたけど』

『村上先輩はそのヒト、見たことありますか?』

『実物はまだないけど、写メなら見せてもらったな』

『どんな感じの子でした?』

『……なかなか可愛い子だったけど、ぶっちゃけ悠生の方が上かも。ほら、あいつ色んな意味でレベル高いから。初めて見た時はお前もびっくりしただろ、一瞬女の子かと思って!』

(確かに驚いたな。並みの可愛さじゃないから、小原先輩は)

村上先輩の言葉に心から同意しつつ、俺は話をもっと深い所まで掘り下げていく。

『付き合ってどれくらいなんですか、その聖女の彼女とは』

『んん?そこまでは俺も詳しく知らないけど……中学の時の同級生だって言ってたから、その頃からじゃないかあ?』

『……そうですか、中学の頃』

(だとすれば最低でも一年半か、結構長いな)

『でもお前、なんでそんなこと訊くんだよ?』

『いや、なんとなく……あの容姿だから、彼女がいるのってちょっと意外だったんで』

『ああ〜まあなァ。でもあいつ運動神経抜群だろ?うちの部でも一番動けるし。性格も明るくて顔も可愛いから、ジャニ系好きな女の子にはモテるよ。ま、でも女の子よりも男からの方がもっとモテてるみたいだけどな!』

あははははー!と軽快な笑い声が受話器から聞こえてくる。

異性のみならず同性からも人気があってしかも現在彼女持ち。思っていた以上にライバルは多く、俺の恋は前途多難だった。

その後、小原先輩本人にも色々探りを入れてみたが、村上先輩の情報通り相手は中学時代の同級生で、二年近く付き合っているとの事だった。

『長い間ずっと同じ人と付き合ってると、飽きちゃったりしませんか?』

『うーん、そうだなあ……安定はしてるけど、飽きたりとかは、ないかな』

『……一途なんですね』

『うん。オレ好きな子はずっと大事にしたいから』

『小原先輩は、浮気した事、ありますか?』

『浮気?まさか、するわけないだろ。そんなもの』

『今まで一度も?まったく無し?』

『当ったり前!付き合ってる人がいるのに、別の誰かなんて、死んでも考えられない』

一縷の躊躇いもない、この真っ直ぐな言葉に、俺は一抹の諦念と強い憧憬を心に抱いていた。

(こんな風に自分のことを一途に想ってもらえたら、どんなに幸せだろう)

思えばきっとこれが、本当の意味で俺が先輩に心底惚れてしまった瞬間だったに違いない。

バスケ部に入部してからずっと先輩を間近で見てきたけど、実際どれだけ他の人間から好意を寄せられようと、甘い誘惑の手を差し伸べられようと、先輩は歯牙にも掛けなかった。

『好きな人がいるから』

ただそれだけの言葉で全てを終わらせて、心に決めた相手以外には絶対落ちることはない。何者にも揺るがない強固で真摯な愛情は、俺のように人一倍独占欲の強いタイプの人間にとって、たまらないほど魅力的だった。

だけどその一途さを表す言葉の裏を返せば、それは即ち、相手がいる今(俺も含めて)他の誰かを好きになることは、百パーセント有りえないと宣言されたようなものだ。

(このままじゃ先輩は一生俺のことを見てくれない)

早い段階で俺はそれを悟っていた。

そして小原先輩との関係が、ただの部活の先輩と後輩から一歩も動かない事に苛立ちを感じ始めた頃、まるで降って湧いた様に、ある一つのチャンスが訪れた。

『明日の練習試合、悠生の彼女が応援に来るらしいぜ』

村上先輩から偶然聞いた話の通り、郊外の市民体育館で行われた他校との試合に、その彼女≠ェやって来た。

(あれが小原先輩の好きな人?)

見た目は確かにそれなりだったが、小原先輩の横に立てばたちまち霞んでしまう。その程度の女にしか見えなかった。二人の姿を遠目で観察しながら、俺は胸の内で荒れ狂うどす黒い感情を懸命に抑えていた。

(……お前さえ、いなければ)

逆恨みも甚だしいが、先輩の気持ちを自分の方へ向けるためには、この女の存在がどうしても邪魔だった。

だから俺に残された選択肢は、多分、ひとつしかない。

『付き合っている人がいるのなら、別れさせてしまえばいい』

一度考えてしまうと、その昏い思考から逃れることが出来なくなった。勿論、ただ待っているだけでは望みは叶わない。

俺は周囲に気づかれないよう、休憩時間に偶然を装って、目当ての人物に声を掛けた。

『突然すみません。スタンド席に凄い可愛い子がいたから、試合中なんかずっと気になっちゃって。俺、西園寺高校一年の安齋律っていいます。よかったらこれ、番号書いてあるんで連絡してください』

手短に用件だけ伝えて、自分の携帯番号とメールアドレスを書いた紙を渡した。返事が貰えるかは半信半疑だったが、その日の夜に早速メールがきた。

『聖鈴女子二年の秋川リナです。今日の試合は友達の応援で行ったんだけど、西園寺に背が高くて凄く目立つかっこいい人がいたから、私も気になってました』

小原先輩と俺ではタイプが全く違うから(特に外見に関しては正反対と言っていいほど系統が違う)もしかしたらその辺が一番ネックになるかと思っていたが、全くの杞憂だった。 

碌に話もしていないのに、やたら好感触な内容の文面を見て、自分で仕掛けておきながらこうもあっさり誘いに乗ってくる女に、無性に腹が立った。

「……友達、ね……」

(先輩、あなたがとても大切にしている彼女は、あなたの事を友達≠ニ言っていますよ?)

何も知らない先輩に教えてやりたかった。信じている相手は、彼氏がいるのに他の男の甘言にたやすく心が傾くような、頭の軽い女なのだと。

(先輩のように純粋で一途な人に、あんな女は相応しくない)

そう思えば、これから自分がやろうとしている事に良心の呵責など微塵も湧かなかった。

―――最初の返事が来た時点で、これなら数回揺さぶりをかければすぐに落ちるだろうと予想した通り、事は計画的に進んでいった。

練習試合の翌日から毎日メールと電話でやり取りを続け、二週間後には本人と直に会う約束を取り付けることに成功した。そのあと数回の逢瀬を重ねて、既成事実にまで関係を持ち込んだ頃、タイミングを見計ってリナに話を切り出した。

『うちのキャプテンと付き合ってるって聞いたんだけどさ……小原先輩なんてやめて、俺と付き合ってよ……好きなんだ、リナのこと』

とびきりの甘い声で囁いて、熱い口付けを交わす。

唆す言葉にうっとりとしながら、莫迦な女は俺の背中に腕を廻して了承の意を口にした。

『二月のバレンタインまでには悠生に話をするね』

『本当に?小原先輩にチョコあげたりしない?』

『うん。だって律のことしか好きじゃないもん』

『……俺も、リナだけだよ。だからもう、小原先輩のことは全部忘れて?』

『大丈夫。心配しなくても悠生とはちゃんと別れるから』

『あと、もうひとつお願いがあるんだけど。俺がリナと付き合ってることは、小原先輩には内緒にしておいて。一応部活の先輩だから、知られたら部内で他の皆にも色々言われるし、居辛くなっちゃうから』

『わかった。悠生には勉強が忙しいからって言って、適当に誤魔化しておく』

――――こうして俺の誘導するまま、リナは先輩に別れを告げた。それが二月上旬の頃。

その後はずっと俺が望んでいた通りの展開でここまできていた……ほんの、数分前までは。

目論み通り、先輩がリナと別れてからも俺がリナとの付き合いを続けていたのは、万が一の時の為に保険を掛けておきたかったからだ。

別れたからといって、すぐに相手を忘れられるとは限らない。先輩の心に僅かでも未練が残っていた場合、俺がリナと付き合うのをやめてしまったら、もしかしてまた元の鞘に戻ってしまうかもしれないと危惧したからだった。

先輩を完全に自分のものにするまでは……そう思ってのらりくらりとはぐらかしては、表面上だけの関係を続けてきたけど、それが返って裏目に出た。

確かにここ最近は、小原先輩に今まで以上に夢中になっていたから、リナと会うことは疎か、電話やメールさえも以前のように頻繁には返していなかった。だからといってまさか、学校にまで乗り込んでくるとは思わなかった。

リナに関してはいつ引導を渡してもいいと思っていたから、今日の予期せぬ決別に不満は無い。

今回の件では、彼女もある意味とばっちりを受けただけにすぎないのかもしれないが、俺の誘いに自ら乗った時点で、被害者から共犯者になったのも同然だ。二股をかけていた事は事実なのだから、本人にも少なからず責任はあるだろう。

……とはいえ、酷い事をしたという自覚は、勿論ある。

要は自分のエゴでそれまで上手く言っていた恋人達に波風を立て、剰え別れさせてしまったのだから。

それでも罪悪を感じるよりも、先輩を手に入れたいと思う気持ちの方が遥かに強かった。どんなことをしてでも欲しかった。だから酷いことだとわかっていても何でも出来た。

誰を犠牲にしても、この恋を必ず成就させる。

そのためには一切手段は問わない。たとえ何があっても、後悔しない。そう、思っていた。

――――だけど。

(先輩、泣きそうな顔してた)

裏切り者≠断罪するような目で俺を見ていた、先輩の傷ついた表情が脳裏に焼きついて離れない。

リナに罵倒されても心は一ミリも動かなかったのに、あれだけ決意して臨んだ自らのやり方に疑問を持ってしまった。

(本当にこの方法しかなかったのか)

だけど過ぎてしまったことを今更後悔しても仕方がない。

あの時はこうするしかないと思ったし、たとえ過去に戻れたとしても、きっと俺は今と全く同じ選択をするだろう。

人を好きになるということは、必ずしも綺麗な感情を抱くだけではいられない。

好きだからこそ……追い詰められて、余裕が無くなって、時に非道で冷酷になることもある。

(でも、先輩を傷つけたいわけじゃなかった)

矛盾したこの想いの中で、それでも胸を張って言えるのは、俺が小原先輩を本気で好きだということだ。

沢山の隠し事をして卑怯な嘘もついてきたけど、その気持ちだけは、本物だ。

それを今伝えなければならない。

(このまま終わりになんて、絶対させない)

――――俺は校舎の中で先輩が行きそうな場所を、端から虱潰しに調べて行った。

 

 
                       2015/02/14 up