3【SIDE*Y】
The Next Day
March 15
午前七時四十五分。いつもの時間に家を出ようと、玄関のドアを開けた瞬間、聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。
「おはようございます、小原先輩」
「え……あ、安齋? 」
通常ならば、ここはいつものように見慣れた廊下の壁と御対面のはずだった。ところがその壁を遮るようにして、昨日オレの唇を菓子代わりに奪っていきやがった一歳年下の後輩が、腕を組んで立っていた。
「なに、どうしたんだよ。こんな朝に」
ここ、うちのマンションなんですけど?(……いや別に、持ち家だとか分譲云々の意味ではなく。勿論賃貸だし名義も非オレですが)しかも、オレの住んでいる部屋の前。
一体どうしてそんな所でこんな時間にお会いするのか、甚だ疑問なんですけど。君が本来行くべき場所は学校であって、オレの家では、断じてない。
―――ずばり、目的地、間違えてますよ?
と云うオレの心の声を聞き取ったかのように、安齋はそうじゃないと言いたげに少しだけ首を振りながら「迎えに来たんです、先輩を」と言ってにっこり笑った。
「え?」
オレが訝しそうに眉を顰めると、安齋は更に笑みを深くしてこう言った。
「今日から一緒に学校行きましょう」
「はあ!?何で、オレが!」
「昨日ホワイトデーのお返し貰ったからですよ。その御礼に、これから毎日学校まで送り迎えしようかなあと思って」
「お返しって……や、あれは、お前が勝手に……ッ!」
(……って、アレ?なんかこれと似たような会話を、昨日もしたような気が……)
「歩くよりチャリの方が断然早いし楽ですよ?大丈夫、安全運転でいきますから」
「あ、ちょ……っ!」
返事をする暇も無く腕を取られて、エレベーターの所まで連れて行かれる。ボタンを押して待つ間、安齋はずっとオレの手を握ったままでいた。
「……おいこら。手ぇ、離せよ」
「どうしてですか?」
(どうして?じゃねえよ阿呆!)
むしろこっちが、どうして手とか繋いじゃってんですか、オレら?って聞きたいっつうの!小学生かよ!……いや今時小学生だって男同士は手なんか繋がないし!全く恥ずかしい。
「離せって。人に見られるだろ」
「……そうですね」
安齋はオレの言葉に同意しながらも、繋いだ手は一向に放そうとしない。内心舌打ちをして、力任せに手を振り払ってみたけれど、思いのほか強く握られていて全然離れなかった。
(あー、もう!)
「ほら、エレベーター来ちゃうって!」
焦りながらオレが言うと、
「えー……、でも……」
安齋は憮然とした声で短く異論を唱えた。
不満そうな顔で、普通にしていればとても綺麗な形をしている口を、今は盛大なへの字に曲げている。
(なにこいつ。まるで玩具を買って貰えなくて拗ねている、小さな子どもみたいだな)
そんな事を考えている間に、チン、とエレベーターの到着を知らせる音が廊下に響いた。
(うわあああ、き、来た……っ!)
「ちょっと、もう、早く!」
「……はい」
渋りながらやっと了承した安齋がオレの手を離した瞬間、ドアが左右に大きく開いた。
(間一髪!)
オレはほっと胸を撫で下ろした―――が。
「……あ、れ?」
予想外な事に眼前には無人の四角い空間があるだけだった。
「何だ、誰もいないじゃないですか」
ハァ、と溜息を吐いた安齋は先にエレベーターに乗り込むと、ドアの開ボタンを押しながらオレを恨めしそうに見た。
「た、たまたまだろ。いつもは大体、二・三人はいるんだよ」
言い訳しながら安齋の後に続き、エレベーターの中へ入る。
「…………」
一階のエントランスに向かって下降していく狭い密室の中で、何故か安齋は一言も喋ろうとしなかった。
こいつが変に大人しいせいで、何やら責められてるような居た堪れない気分になってくる。
(……なんだよ。オレが、なにしたっていうんだ)
『おい。な、何か言えよ……き、気まずいから……』
後ろから安齋の背中に向かって必死でテレパシーを送ってみるものの、かた苦しい沈黙は相変わらず続く。今度はオレが口をへの字にする番だった。
そうこうしている内に、ようやく一階へと辿り着く。
重苦しい空気を打破するように、外へと通じる扉が左右に開いた。これでやっと肩身の狭いこの空間から逃れられる。
ホッと息をついて、一目散に扉を出ようとしたら。
「……待って、」
安齋はボタンを抑えている方とは逆側の手でオレの右腕を掴んできた。
(え、なんだよ?)
振り返っている間に開いていた入り口が再びその幅をどんどん狭めていく。それぞれ二つの矢印が内側に向かっているボタン……つまり閉ボタンを安齋が押したからだ。
パタン、という音と共にドアが完全に閉じられた。
再び小さな密室の中に取り残されたオレは……自分の両手を身体ごと壁に押し付けられる形で、安齋に掴まれていた。
そして上から覆い被さるようにして突然降ってきた口付けに、驚愕して大きく目を見開いた。
「……ン……ッ」
あたたかい、自分以外の熱が口に触れている。
二度目のキス……だけど、昨日みたいに軽く触れるだけに留まらず、すぐには終わらなかった。
驚きに息を止めて固まっていると、安齋は最初軽く触れているだけだったオレの唇を、食むようして強く重ねながら、時折柔らかく吸い上げてくる。
角度を変えて何度かそれを繰り返されるうちに、身体から力が抜けるような感覚があって、思わず口元が勝手に緩んでしまった。その隙間にできた唇の入り口に熱くて湿ったモノが、僅かに侵入してくる。
「……っ!」
瞬間、背筋に悪寒のような奇妙な痺れが走った。
本能的に恐怖を感じ、第六感のようなものがオレの脳内で危険信号を緊急発信した。それまでされるがままでいたオレはハッとして我に返ると、いつの間にか解かれていた両手を使って、安齋の身体を力一杯押し返した。
「お、前……っ!!」
昨日に引き続き、またもや唇を奪われた。し、しかも昨日に比べて随分と強引だったし、時間も長くて……少しだけ、怖かった。
「こ、今度はなんだよ!」
ホワイトデーのお返しは昨日で終わったはずだ。
なのに、再びのこの暴挙は一体何事か、と糾弾すると安齋は昨日と同様、こんなの当たり前のことだといわんばかりの不遜な態度で、理解不能な事を平然と言った。
「……挨拶です。俺、最初におはようございます、って言ったのに、先輩からはまだ言って貰ってなかったんで」
(……っはああああ!?なんっだソレ? た、確かに、お前はオレにおはようって言ったけど。オレはお前におはようって、言ってなかったけど!それでかわりに、コレ!?)
「挨拶は日本人の、いえ人としての基本ですよ、先輩」
(そんなの充分わかってます!でもな!)
「だからって、わざわざこんなコトすることないだろ?!口で言えばいい事だろう?」
それに、あ、あれの、どこが挨拶だ……!あああ、あんな凄いのが挨拶だなんて言ったら、そういう事に慣れていらっしゃる欧米人の方たちだって皆、きっとビックリ仰天だ!
オレが意気込んでそう捲くし立てると、安齋は落ち着き払った様子で「まあ、そうですね」とあっさり肯定した。
(くっそ、なんなんだ、こいつは!)
顔が紅潮して、息が切れているのが自分でもわかる。
オレは突っ立ったまま動こうとしない安齋を押し退けると、やや乱暴な動作でボタンを押して外に出た。
(あーもう最悪!朝から超最低!)
心の中でそう叫びつつも、不覚にもドキドキしてしまっている自分がいる。なんかちょっとヤバイな、コレ……と妙な危機感をヒシヒシと感じていると、
「……やっぱり、甘かった」
妙に実感のこもった安齋の声が後ろから小さく聞こえてきた。
(だから、人の唇をお菓子代わりにするなって!お前なんて、そこで少しは反省してろ!)
オレは後ろを勢い良く振り返ると、安齋を残したままで、エレベーターのスイッチを押してやった。再度扉が閉じられ、姿の見えなくなった男に少しだけ溜飲が下がる。
だけどその小さな箱の中で安齋が一人「でもまだ、全然足りない」と至極不穏な言葉を呟いていたことを、幸か不幸か気づくことはなかった。
A Closing Ceremony
March 20
月日が経つのは早いもので、オレ、小原悠生十七歳は本日を以って、高校生活二年目の終焉を迎える。
……ってなんだか大袈裟な物言いになってしまったけど、つまりは終業式を無事迎えたということだ。
ホワイトデーから約一週間が経過した今日現在、一方的に提唱された『小原先輩の恋人候補猶予期間』とやらは、未だ進行形で続いていた。
あの日から安齋は「毎日送り迎えします」との宣言通り、毎朝自慢の愛車ならぬ、自前の愛チャリで玄関先まで慇懃に迎えに来ていた。それだけでなく、事あるごとに教室にオレの顔を見に来たり、部活の無い放課後には必ず教室前で待ち伏せしていたり。
まるでぷちストーカーの如く、気づけばオレの傍にいた。
無論それだけならば取り立てて大騒ぎする程のことでなし。
問題なのは、最近目に見えて密度を大幅に増した、スキンシップの過剰具合だ。
というかその前に、あれはそもそもスキンシップと呼べる範疇に収まっているのだろうか。最早セクハラと呼ぶべき域に達していると言っても、過言ではない。
会えば馬鹿の一つ覚えみたいに「先輩って本当に可愛いですよね」「好きです」「俺と付き合ってください」と頭のおかしな事を真顔でほざいてくる。
それ以外にも隙あらばいざ、といった感じで、部室で偶然二人きりになった時や帰り道で人気の無い時、廻りに誰もいない時には必ず、先ほど述べたようなタチの悪い口説き文句を耳元に延々囁きながら、頬や額にキスしてくる。
勿論それらは、あのエレベーターの中でされたような強引なものではなく、ホワイトデーの時みたいに一瞬だけ触れたらすぐに離れていくような、ごく軽いやつだったけれど。
でもそうされることが決して不快ではなく、嫌悪感の一つも湧かない事が、実は一番の問題だった。いつの間にか一緒にいることが当たり前みたいになって、安齋の存在が自分の中で日毎大きくなっていくのを心の奥底で感じていた。
最初は焦るだけだった過剰なまでの触れ合いも、慣れてしまった今ではただ心地よくて、冗談のような軽いキスでさえ心が浮き立つような甘い感覚を運んでくる。
ほろ苦く胸を刺す甘く切ない痛みが齎す感情は、本来なら決して同性に抱くことのない種類のものだ。
男が男を好きになるなんて、そんな荒唐無稽な事があるわけない。告白された時オレは頑なにそう決め付けていた。
確かに今でもその思いは変わらずにあるけど、あの時否定した「性別がどうであろうと、そのひと自身を好きになる」という安齋の言い分も、確かに一理あるのかもしれないと思い始めていることもまた、事実だった。
そう、認めたくはないけれど。
誠に信じ難い事に、宇宙レベルで有りえないといっておきながら、同じ染色体を持つ男である一歳年下の後輩に、どうやらオレはそういう意味≠ナ惹かれているらしいのだ。
とはいえ、あくまでもそれは『らしい』だから、まだ確実にそうと決まったわけじゃない。
まだわからない。違うかもしれないし、ただの勘違いかもしれない。
……でも、こんな風に自分で自分に言い訳をしている時点で、既にもう手遅れなのかもしれなかった。
*****
「明日から春休みですね。先輩は何か予定ありますか?」
終業式の帰り道。
安齋はオレの隣を歩きながらこれから始まる休日の予定を訊いてきた。今日はいつものチャリ送迎が(タイヤのパンク修理の為)休業中なので、久しぶりの徒歩通学だ。
「予定って、具体的に何月何日のことだよ」
「明日から始業式まで、全部です。たとえば長期のお休みだから、家族で旅行に行くとか」
「旅行?いや、そういう予定はないけど。お前は?」
「俺ですか?……明日から一週間ほど海外に行ってきます。その後は一応、週の半分は予備校の講習がありますけど」
「海外!へえ〜優雅だな。どこ?誰と行くんだ?」
「父親の仕事の関係でカナダの方へ。でも旅行ってわけじゃなくて、後学のためについて行くだけなんですけどね」
「後学って、医療関係とか?お前の家って確か、大きい病院なんだっけ」
うちの学校は偏差値が高いことで有名だけど、学費も私立だけあって、これまた莫迦高い。
必然的にそこへ通う生徒達は皆金銭面で裕福な家庭ばかりになるので、こいつのように親が病院の院長だったり、弁護士や政治家、はたまた銀行の頭取の子息と、将来有望なお家柄の出身者が校内にわんさといた。
「総合病院なんでそれなりに規模はありますね。だから将来医者になった時、もしも先輩が病気になっちゃったら、俺が治してあげますよ。勿論、特別料金で」
「はあ?先輩相手にぼったくる気かよ」
「まさか!俺そんなに悪徳じゃないです。特別料金っていうのは現金じゃなくて、って意味ですよ。たとえば診察一回につき、キス一回とか」
安齋は人差し指でトントン、と自分の唇をノックしながら悪戯っぽい瞳で笑む。
「……そんなのいつもしてるじゃん」
(毎日お前が、勝手に。一方的に)
「俺からするんじゃなくて、たまには先輩からして欲しいんです」
そういって急に立ち止まった隣人につられて、オレも一緒に足を止める。
安齋は背を屈めて、二十センチ近く身長差のあるオレの耳に自分の顔を近づけると、内緒話をするみたいに潜めた声で低く囁いた。
「あと、いつもしてるみたいなやつじゃなくて、もっとちゃんとしたのがいいな。ほら、あのエレベーターの中でしたみたいな……」
甘く響く声が鼓膜を滑らかに揺らす。ぞわ、と背中が一瞬にしてあわ立った。
「……ッ、み、みみ、耳元でしゃべるな……っ、く、くすぐったい!」
「あれ、今ちょっと感じちゃいました?」
「ちちちち違う!断じて!神に誓って!」
「先輩感度抜群ですね。すごい、興奮するなあ」
「こっ!?こ、こっ、こっ……」
「にわとりごっこですか?」
「ちげェよアホ!妙な言い方をするな。強制猥褻罪で訴えるぞ!」
憤慨しながら息も絶え絶えに言うオレに、安齋はいけしゃあしゃあと憎たらしくのたまった。
「猥褻なことなんか、なに一つしてないですけど。今の所、まだ」
「黙れこの変態!もうお前なんて、いっぺん死んで来い!」
オレはここが往来だということもすっかり忘れて、怒りのままにひたすら喚き散らした。
(何だこのウルトラスペシャル級に恥ずかしい会話は!)
甘ったるい空気に居た堪れなくなったオレは、照れ隠しに安齋の脇腹に肘鉄をビシッと一撃決めてやる。
「わ、イテッ。ちょ、それマジ痛いって先輩!」
わあわあと苦情を言いながらも、安齋は決してオレの攻撃から逃げようとはしない。それに大袈裟に痛がっているけど、本当はそれほど痛くないはずだ。
だって、顔が凄い嬉しそうだもん。
(どうせ痛がるフリするんなら、もっと完璧にやれよ!)
ひとしきりオレの一方的な襲撃を甘んじて受けていた安齋は、ふと真顔になって「……明日からしばらく、先輩とこういう事も出来なくなるんですよね。寂しいなあ」と零した。
「……あー、そっか。お前カナダに行くんだもんな」
「先輩は俺と一週間も離れていて、寂しくないですか?」
「べつに、へーきだけど……」
「本当に?全然?これっぽっちも?顔も見られず、声も聞けない、それが一週間も続くんですよ?……俺はものすごく、寂しいです」
安齋はがっくりと肩を落としながら、情感たっぷりに切々と訴えてくる。
「まあ……うん、そう、だな……」
歯切れの悪い返事をすると、眦を下げた安齋は不服そうな顔でオレをじっと見ていた。自分はこんなに寂しいと思っているのに、先輩はなんとも思わないなんて薄情だ、と視線で黙々と語っている。
(んー……これは完璧、誤解されてるっぽいな……)
そうじゃないんだって……オレは心の中で密かに反論した。
会えなくても全然寂しくないとオレが言い切ってしまえるのは、安齋が考えているような(単にオレが冷めた人間だという)事とは全く異なる別の理由があるからだ。
それは、ここ最近は常にこいつが傍にいたから、オレの中で『寂しい』という感覚自体が久しい事疎遠になっていて、しかも一緒にいすぎたせいか『安齋がいない生活』というのがどういうものなのか、具体的に想像がつかないんだ。
だから寂しくないというよりも、寂しいと思うかなんて、実際離れてみないとよくわからない、というのが偽りの無い素直な気持ちだった。
(……変だな。前は今ほどべったりってわけじゃなかったし、せいぜい部活の時に会うくらいだったのに)
安齋のいない自分の世界がどんなだったか思い出せないだなんて―――結構、どころではなく相当こいつの存在が、俺の中に這入りこんで来ているということに他ならない。
思い当たった事実に内心驚愕していると、安齋は強張った顔をふっと和らげて、遠慮がちに声を掛けてきた。
「……あの、小原先輩。カナダから帰ってきたら、一度俺とデートしてくれませんか?」
突然の直球な誘い文句に、鼓動がドクリと飛び跳ねた。
「一緒に出掛けませんか」でもなく「二人で遊びに行きませんか」でもなく「デートしませんか」ときた。これじゃあ気軽にウンって言えないじゃないか。
「……先輩?」
不安そうな顔で上から目を覗き込むように見つめられて、不覚にもちょっと胸がドキドキしてしまった。
あ、本当に、ものすごく、ちょっとだけど!
「い……いけど、」
なんとなく気恥ずかしくて、つい言葉がよどんでしまう。
「けど?」
「そのかわり、土産はしっかり買ってこいよ?」
「……はい!」
安齋は満面の笑みを浮かべ、百点満点の返事をした。
A Spring Vacation
March 30
『ずいぶんと楽しそうだな、オイ』
――――眼前の光景を目の当たりにした時、オレが抱いた第一印象は、それだった。
終業式から十日後、約束の時間三分前午前十二時五十七分。
待ち合わせ場所である駅構内に到着したオレは、恨みがましい気分で額に青筋を数本刻みながら、柱越しから『それ』をじっと眺めていた。
目的地を目前にしているのにも関わらずその場所に堂々と出て行けないのは、待ち人たる知人の後輩が見知らぬどこぞの美女達に囲まれて、和気藹々と絶賛談笑中でいらっしゃるからだ。
詳細を簡単に実況中継させていただくと、十日ぶりに見る我が後輩の安齋律年上タラシ王子くんは(あ、本名は律までです。一応、念のため)現在オレのいる場所から数メートル離れた所で、オレらよりも二・三歳年上と思われる綺麗め系の御姉様総勢三名から、熱烈なアピールを(要は、ナンパだ)受けていた。
多少距離があるから話している内容までは不明だけど、三人共揃って携帯を持ちながら必死な面持ちで安齋に何事かを話しかけている所から察するに、恐らくメアドかケー番でも訊かれているのだろう。
(ったく、気軽に番号なんか教えてんじゃねえっつうの……)
苛々しながらもその場で大人しく待機していたけど、カップラーメンが一個作れてしまうくらいの時間が経ち、約束の午後一時を過ぎても、美女達は一向に去る気配が無かった。
ここでただ待っていても、埒が明かない。いい加減痺れを切らしたオレは、意を決してその場を離れた。
近くまで行くと、ようやくオレの登場に気がついた安齋は自分を取り囲んでいた三人の美女達に一言二言声を掛けて、惜しまれつつも別れを告げた。
「小原先輩!久しぶりですね」
嬉しそうな顔で俺の元へ一目散に走ってきた後輩に、一人寂しくやさぐれていたオレは、わざと謙った嫌味っぽい言い方で謝罪を述べてやった。
「どうもー。この度はお楽しみの所をお邪魔しちゃいまして、大変申し訳ありませんね」
「え?……やだなあ先輩、お楽しみはこれからですよ?大体先輩がいないのに、楽しいことなんてあるわけないじゃないですか」
「よく言うよ。年上の美人なおねーさん達に囲まれて、嬉しそうにしてたくせに」
「あんなの、ただの暇つぶしですよ。先輩が来るまでの」
「……暇つぶさなきゃいけないほど、オレ遅かったか?時間ぴったりに来たつもりだけど」
「遅くないです、ただ俺が早めに来てたってだけで」
「早めって、どれくらい?いつ頃着いた?」
「実は一時間ほど前に」
「えっ、い……一時間?!」
(そりゃあ暇の一つも潰したくなるだろうけど……)
「なんでお前、そんな早くから来てんの?」
「だって先輩を一人で待たせたりしたら、おかしな男に声掛けられまくっちゃいそうで心配だし」
「……ふーん、あっそ」
(だからオレの代わりに、お前が女の子たちにお声を掛けて頂いてたというわけですか、ケッ。それはそれはよい御身分なことで、大変結構、ケッ)
……会うの久しぶりだからちょっと緊張するかも、なんて、ガラにも無くドキドキしていたオレは、馬鹿だ。
少しは寂しがってたかな、とか、密かに期待していたオレは、自意識過剰の大馬鹿者だ。
「ていうかさ。いつも学校行く時みたいに一緒に来ればよかったんじゃねえの?お前の家から駅に行く途中に、オレの家があるんだから」
「もしかして先輩、一刻も早く俺に会いたかったとか?」
「阿呆。わざわざ駅で待ち合わせする意味がわかんないって言ってんの、オレは」
「外で待ち合わせした方がよりデートっぽいかなあと思ったんですよ。今度は先輩の家まで、迎えに行きますね」
「別に、どっちだっていいけどさ……」
そのままむっつり黙り込んでいると、安齋は「あ、そうだ」と言って、左手に持っていた小さめの紙袋を渡してきた。
「はい、これ。パリのお土産です」
「パリ?お前確か、カナダに行ったんじゃなかったっけ?」
「カナダにも行きましたよ。思ったよりも用事が早く済んだから、帰りに少し寄り道してきたんです」
ちょっと時間が余っていたから、近所の本屋についでに寄ってきました、くらいの気軽さで安齋はさらりと言う。
『ちょっと、ついでに、ふらっと寄ってみる』ほどフランスとカナダって近かったっけ?とオレは疑問に思いながら受け取った袋の中をチラリと覗くと、綺麗なリボンが掛けられた箱のようなものが見えた。
「開けてみてください。気に入ってもらえるといいですけど」
促されるままリボンを解いて、包装紙に包まれた箱を取り出す。蓋を受けると、中には見るからに高級そうな品のあるシルバーの腕時計が入っていた。
「………!」
時計の表面に見た事のあるブランドのロゴが入っているのに気づいたオレは、思わず絶句した。
以前貰ったチョコレートも見知ったブランドのものだったけど、今回のはそれとは比較にならないくらい、値段の桁が違うはずだ。
いや……決してゴディバが安いといっているわけではなく、そもそも食品と物品では下限からして違うのだから、値段が違うもの当然なのだけれど。
「……まさかと思うけど、これ、本物?」
「まさかじゃなくても、それ、本物です」
一字一句律儀に返答を寄越す後輩を前にして、オレはその場で卒倒しそうになった。
(おいおい……嘘だろ……)
見覚えのあるこの時計は、つい最近雑誌に載っていたのを見ていたオレが「これ、シンプルで格好いいよなあ」と何の気なしに安齋に話していたものだった。これが偶然とは到底思えない。
「確かに土産買って来いって言ったのはオレだけど、こんな高価なもの要求してないって!オレが想像してたのは、もっとこう、普通の……たとえば海外のお土産の定番のマカダミアナッツのチョコレートとか!」
「チョコが良かったんですか?でもバレンタインにもあげたから、同じものじゃつまらないし」
「だからって……こんな高いもの受け取れない」
「たいして高くないですよ。一応免税店で買ったから」
(いや免税店に売ってるようなものは、そもそもどれも全部お高いだろ!)
少なくとも、十代の高校生がポンと出せるような金額じゃない事は確実だ。
「とにかく返すから」
「これ……気に入らないですか?」
「いや、それはないけど」
もともと欲しかったものだし。でも自分の小遣いじゃ手が出なかったから、諦めたけど。
「じゃあ、欲しくないですか?」
(そりゃあ勿論、欲しい……けど)
だからといって、それじゃあどうもいただきますと気軽に貰うわけにはいかない。
近所のおばちゃんがくれる煮物の御裾分けじゃあるまいし。
「こんなのもらう理由ないし」
「理由ならあるでしょう?今日のデートに付き合ってもらう御礼です。もし御礼が嫌なら、ただのお土産としてもらってください。返されても、ゴミになるだけだから」
「ご、ゴミって……!」
(なんて罰当たりなことを言うんだ、貴様!)
「なんでだよ、お前が使えばいいじゃん」
「俺は同じのを持っていますから、それは先輩が使ってくれないと意味がないんです」
「え?……あ」
見れば安齋の右腕には、箱の中の腕時計と全く同じものが装着されている。
(……えーっと。これって、要するに……お揃い、ってこと?)
「先輩と同じ物って何も持ってなかったから、それつけてくれたら嬉しいです。せめて、今日だけでもいいから」
……そう切実に懇願されてしまうと、つい年上として、何とか答えてやりたいと思う気持ちが出てきてしまう。
(ここまで言われたら、これ以上無下にするのは流石に悪いよなあ……)
「じゃあ、とりあえず今日だけ……」
躊躇いがちに了承すると、安齋はパッと花が咲いたように晴れやかに笑って、箱の中から取り出した新品の腕時計を、オレの右腕に合わせようとした。
「あ、待って。右より左の方がいい。オレ、利き腕左だからそっちの方が見やすいんだ」
「ああ……そうでしたね。じゃあ、左につけますね。でも、これ左腕だと……なんかますます姫っぽいような……」
「ん?今なんか言ったか?」
「いえ、一人言です。……あれ?サイズ一応合わせてきたつもりだったけど、まだかなり緩いですね。左だから余計かな。それにしても先輩、本当に腕、ほっそいなあ……」
安齋は感嘆しながら、オレの左手首を熱心に見つめている。
無理に振り払うのも不自然なので、オレはとりあえず他の話題を提示してみた。
「で、その、まずはどこに行くんだ?」
「もしよかったら、映画観に行きませんか?俺今すごく観たいのがあって」
「映画?うん、いいよ」
「良かった、実はもうチケットとってあるんです。というわけで、時間ないから早速行きましょう!」
「あ、ちょ、オイ……ッ」
握られていた腕をそのまま勢いよく引っ張られる。
ウキウキと飛び跳ねるように歩を進める安齋に引きずられるようにして、オレは次の目的地に向かった。
*****
『俺何か飲み物買ってくるんで、先輩は先に席で待っていて下さい』
そう言われて安齋よりも一足先にシアターホールに入ったオレは、渡されたチケットを頼りに自分達の席を探していく。
(12がここだから……あ、あの辺だな)
13、14……と番号を追って行き、程無くしてK21と書かれた場所へ辿り着いた。
スクリーン側から見て最後尾列の一番右端がK21、その一つ左が安齋の持っているチケット番号K20の席だ。
該当する席に腰を下ろし、手持ち無沙汰気味で前方に構える巨大スクリーンをぼうっと眺めた。
(端だから、やっぱりちょっと見づらいかな)
一番後ろを選ぶのはわかるけど、どうして一番端の席なんだろう。普通真ん中を選ぶのが定石だと思うのだけれど。
席が埋まっていて取れなかったというなら兎も角、数日前からネットで予約しておいた(と、さっき安齋が話していた)のだから、席は選びたい放題だったはずだ。
それに安齋が凄く観たいと言っていた映画も、かなり意外なものだった。
今は春休み中なので、人気の洋画が沢山上映されている。その中でも先週封切をした、シリーズ物の第四作目となるSFアクションが一番人気で、観たい映画があると聞いた時、絶対にそれのことだと思っていた。
ところが安齋が持っていたチケットの映画は(ポスターに書かれていたあらすじから察するに)ラブコメ調の恋愛モノらしく、上映期間も数日後に終了を控えている、あまり人気のなさそうなものだ。
しかも、こういう言い方は失礼かもしれないけれど『え、こんなの誰が観るの?主演も知らない女優だし、もしかして超B級?』と観る前から侮ってしまうような超マイナー作品(……かどうかは定かでないが、自分的には全く知らないのでそういう印象)だった。その上、レンタルでもアニメ以外はほとんどご縁の無い邦画ときた。
(いいけど……どうせタダだし。でも途中で寝ちゃいそうだなあ……)
上映まで少し時間があるせいか、シアターにはオレ以外まだ誰もいなかった。
なんとなく落ち着かない気分でそわそわしていると、一人、二人と他の観客が入ってくる。いずれもオレのいる場所からかなり離れた中央付近の席に座っていた。
(うーん……普通はあの辺の席を取るよなあ……)
そうだよなあ、やっぱ真ん中が一番観やすいよなあ、うんうん、と赤の他人の席選びの基準にひとり納得しながら、肘掛に頬杖をついて携帯の電源をバイブ設定にしておく。
上映開始時刻まで残り五分を切った頃、両手に何やら色々抱えた安齋がやっと席に戻ってきた。
「遅かったな」
「結構、混んでました。春休みだから小中学生が多いみたいですね。先輩はコーラ、Mで良かったですか?」
「うん、ありがと」
「あとこれ。ポップコーンです」
どうぞ、と渡されたカップには二種類のポップコーンが入っていた。多分メニューの中でも一番人気と評判の、ハーフ&ハーフとかいうやつだ。
「俺は甘党なんでキャラメル味派なんですけど、先輩は甘いものそんなに好きじゃないから塩味の方がいいかなと思って、両方買ってみました」
「オレキャラメルは甘すぎて駄目。胸焼けする」
「じゃあ二つ買って正解でしたね。良かった」
後輩の完璧なまでの献身ぶりを見て、なんだか至れり尽くせりだなーと殿様気取りで感心しつつ、ふとある事を疑問に思った。
「でも二種類買うんなら、わざわざ一個のカップにすることなかったのに」
まさかキャラメルと塩味の単品をそれぞれ一個ずつ買うよりも、二種類入っているカップの方が、お値段がお得だからとか?……そんな理由が脳裏に浮かんだけど、ブランド物の高級時計を土産代わりに気前よくプレセントしてしまう奴が、そんなしょっぱいことを考えるとは思えない。
「別々で食べるより一個のポップコーンを二人で分け合って食べるほうが、仲良しっぽくていいじゃないですか」
「あ〜なるほど。要するに、カップル仕様ってことね」
「そうそう」
(―――っておい!誰がカップルだっつうの!)
自らの発言に軽い失態を覚えながら、塩味の効いたポップコーンを一口摘んだ。
「あ、うまいコレ」
「キャラメルの方も良かったら食べてくださいね」
「そっちはいらない」
「えー、美味しいのに。先輩って甘いものすごい好きそうに見えるのに、意外ですよね」
「そういうお前は全然好きそうに見えないのに、意外すぎて笑えるよな」
「甘いものを食べると幸せな気分になるんですよ……はい、先輩」
「え、ちょ……っ」
安齋はキャラメルポップコーンを、オレの口の中に勝手に押し入れてきた。噛むと口中に香ばしい甘さが広がる。
「むぐ……っ、こら、無理矢理食わせるな!」
食べ慣れない人工的な甘さに眉を顰めながら、モゴモゴと嚥下しているオレを見た安齋は、にこにこしながら「俺にも塩味の方ください」と言って、あーん、と口を開けてくる。
「お前ね。子供じゃないんだから、自分の手で食べなさい!」
持っていたカップを安齋の手に押し付けた時、上映開始のアナウンスが流れ始めて、照明が落とされた。
ポップコーンを頬張りながら、映画館特有の長ったらしいCMを見終わった後、ようやく本編に突入する。
『シュガーホリディズ』というラブコメらしい、いかにも女性が好みそうなポップでラブリーなタイトルが、画面一杯に映し出された。
(まさかと思うけど……甘いもの好きだからって、タイトルで選んでないよな?)
ついそう思ってしまうほど、はっきり言って退屈なストーリーだった。日常がメインの話だから、物語自体にこれといった見所がない上、出ている役者も殆どわからない。
予想していた通り最初の数分から眠くなるような、まったりとした内容だった。
(……面白いか、これ?何で安齋はこれが観たかったんだ?)
上映前から抱いていた疑問が再び浮上してくる。
実際観てもやっぱり人気はなさそうだし、会場にもオレ達を除いて、たったの三人しか客がいない。
(やば……マジで眠くなってきた……)
だけどチケットを貰った手前、寝るわけにもいかないのでオレは安齋に見られないように、こっそり欠伸を噛み殺した。
ポップコーンをコーラで流し込みながら話に集中しようと眠い目を凝らして画面を凝視していると、横からくい、くい、とシャツを引っ張られる。
無反応でいようと思ったけれど、安齋は引っ張るのを中々止めようとしない。
(あ?なんだよもう……トイレか?なら一人で、さっさと行ってこいよ。それともまさか、つれションしてくださいとか言う気じゃねえだろうな、いい年して!)
若干苛々しながら顔を横に向けると、すかさず伸びてきた安齋の大きな両手に、包み込むようにして頬を捕らえられた。
「……っな、に……っ!」
突然の接触に、オレは目一杯うろたえた。
暗闇の中でも決して埋もれることの無い、学年一……いや実質学校一の美形と名高い秀麗なお顔を、安齋はオレの方にギリギリまで―――あと数センチで、お互いの唇が触れてしまうくらいに近づけると、
「先輩の顔見てたら、急にキスしたくなっちゃいました」
潜めた声でとんでもない事を言ってきた。
(なんだよ、急に……っ!)
映画館の中は暗いから、オレの顔が赤くなっているのは見えなくても、触られている頬の熱さできっとバレてしまっただろう。
「おっ、オレの顔じゃなくて、映画を観ろよ……!」
「映画よりも、先輩の方がいいです」
(……何だそれは。お前が観たいって言ったんだぞ、これ!)
「大体、こ、ここを、どこだと思ってんだ!」
「……俺達を含めてもたった五人しかいない、薄暗い映画館の中です。しかもここは最後尾列で、後ろの人に見られる心配はないし、しかもこんな端の方だから、ここから結構な距離のある中央付近に座っている人達は、後ろを振り返りでもしない限り、俺達が何をしていてもわからない……ましてや俺達の話し声なんて、全く聞こえない」
「―――!」
まるで、質問の答えを予め全部用意していました、というようにすらすらと大変流暢に述べる安齋を、オレは唖然たる面持ちで凝視した。
(そういうことか……!)
ようやく理由が呑み込めた。
何故、こんなどうみても面白そうとは思えない、不人気のマイナーな映画を観ようと言ったのか。こいつが前もって、この席をリザーブしていたのか。
それは多分、出来るだけ観客の集まらなそうなホールに入り、尚且つ目立たない席を選ぶ必要があったからだ。
数多の空席の中でこの場所が目出度くエントリーされたのは、安齋の気まぐれでもただの偶然でもない。ここに来る前から既に罠は巧妙に仕組まれていたのだ。
この、用意周到すぎる頭脳明晰な確信犯によって。
(……ああ、だけど)
柔らかな甘い表情を真っ直ぐに向けられて、貴方の事しか見えない……と言葉なく語る瞳で、痛いほどに強く見つめられたら。
「小原先輩……」
甘えるように、求めるように、熱っぽい声で名を呼ばれてしまったら。
(嫌だなんて……言えるわけないじゃないか)
そのまま時が止まってしまったように動けないでいると、安齋は顔を斜めに傾けながら、ゆっくりと近づいてくる。
(あ。キス、される……)
そう思った瞬間、オレは息を止めて、ぎゅっと目をきつく瞑っていた。
「………?」
だけどいつまでたっても何のアクションもない。
恐る恐る目を開けると、安齋は淡く微笑みながら、添えていた左手を離して、オレの右頬にそっと唇を寄せた。
(あ……れ)
いつもしているような挨拶代わりのキス。だけどそれ以上を望まれているのは、安齋の顔を見れば一目瞭然だった。 それでも決して自分からは仕掛けてこようとしない。甘い色を宿した強い視線でオレを視界に捕らえたまま、オレの許しをただひた向きに求めている。
こんな所で、とか、男同士なのに、とか、様々な事が一瞬頭を過ぎった。だけど今、そんな事はどうでもよくて、そうすることが自分にとって最も自然だと思える行動を、オレはためらいも無く実行した。
「……ン……っ」
瞼を伏せると、柔らかな感触が唇を掠めた。
一度目の時みたいな不意打ちではなく、二度目の時にした無理矢理なものでもなく―――自ら望んだ三度目のキスは、今までとは比べようもないほどにドキドキした。
軽く触れるだけの優しいキスを何度もしているうちに、だんだん物足りなくなってきて、もっと深く交わりたい欲求がこみ上げてくる。羞恥も忘れたオレは誘うように口を開き、口腔内に侵入してきた柔らかい舌に自分の舌を積極的に絡め合わせていった。
「……ッ、ふ……ッ」
受け入れて、与えられる。決して一方的ではないそれに、とても幸せな気持ちになって、胸の中があたたかいもので一杯に満たされていく。重ねあった唇が熱くて、甘くて、そこから身体が溶けてしまいそうだった。
初デートにして、まさかのサプライズプレゼント。
一つのポップコーンを二人で分け合って食べながら、人目を忍んでキスをする―――今観ている映画の話に負けず劣らずの甘い休日だ。
そんなミエミエのベッタベタな、ありがちすぎるシチュエ―ションなんぞに、オレは物の見事に嵌ってしまったらしい。
「……っ、は、あ……」
ひとしきり貪りあうような口付けをした後、安齋は息が上がってしまったオレを見て、目を細めながら本当に嬉しそうに破顔一笑した。
「……キャラメルの味がする。やっぱり先輩の唇って甘いね」
「……馬鹿」
キャラメルの味がするのはオレじゃなくて、お前の舌だよ。だから甘いのはお前の唇だ。
そう教えてやろうとして、でもそれが凄く恥ずかしい事だとすぐに気がついて、喉元まで出掛かっていた言葉をすんでの所で飲み込んだ。
(もしかして塩味のやつを食べた後でしたら、キスの味もしょっぱいのかな……)
残りの上映時間中、オレは上気せ上がった頭でずっとそんなことばかり考えていた。
*****
「じゃあ、また。今日は色々ありがとな」
帰り際わざわざ玄関の前まで送りに来た安齋に、別れを告げて部屋に入ろうとしたら、待て、といわんばかりに後ろから腕を引かれた。ドキリとして振り返ると、安齋は真剣な顔でオレをじっと見つめている。
「先輩、春休みが明けたら……返事をもらえませんか?」
「…………」
「何の返事、って訊かないんですか?」
少しだけ表情を和らげた安齋に揶揄するように言われる。オレは誘導されるまま、オウム返しに言葉を発した。
「……なんのへんじ?」
「告白の。先輩が本気で好きだから、俺と真剣に付き合って欲しいです。その答えを、ください」
ストレートな催促に、はっきりと動揺した。
どうしよう。突然言われてもどうすればいいかわからない。
答えを上手くはぐらかせる程、オレの恋愛スキルはレベル高くないし……事前の覚悟も無しで告白の返事が出来る程、オレの羞恥心はハードル低くないんだ。
「答えなんて、そんなの、もう……」
わかっているくせに。そう言ってしまえば、このまま後に引けなくなるのがわかりきっていたから、オレは目を伏せてなんとかこの話題から逃げようとした。
「そんなの、どうだっていいじゃん……」
(どうせ言わなくても、オレの気持ちなんかあのキスで全部バレてちゃってるんだし)
恥ずかしいやら照れくさいやらで、オレは求められている言葉を中々口に出せないでいた。だけど安齋も、依然として引き下がろうはとしない。
「ナアナアで流された……みたいな始まり方は嫌なんです。『恋人候補』じゃなくて、俺は先輩の『恋人』になりたい」
切実な声で訴えながら、安齋は徐に別の案を提示してくる。
「もし口で言うのがどうしても無理なら、始業式の時にこの時計をしてきて下さい」
「これ……?」
「そう、それでわかるから。先輩が、まだ俺のことをただの後輩にしか思えないっていうのなら、それはしてこなくてもいい。でももし、俺が先輩を想う百分の一でもいいから、俺の事を好きになってくれたなら……それをつけて、俺と付き合ってください」
真摯に言葉を募る安齋を、オレは息を呑んで瞠目した。
(……もしかしてそのためのプレゼントだったのか?好きだとか付き合うだとか、言葉にするのが苦手なオレでも、ちゃんと返事ができるように)
本当に、呆れるくらいに用意周到な男。策士すぎだ―――
まるで逃げ道を完全に塞がれた気分だった。たとえるなら四面楚歌ならぬ、三面楚歌とでもいうべきか。
周りに敵こそいないものの、四方あるうちの三方の道が既に塞がれていて、あとは前方しか残ってない。
そして唯一残された道には目の前の後輩がほくそ笑みながら両手を広げて、オレが来るのを今か今かと待ち構えている。
だけど安齋は決して無理に手を引っ張るような事はしない。
オレが自ら足を踏み入れるように、甘く唆すだけ……だから『そこ』へ行くかどうかは、あくまで自分の気持ち次第だ。
いつも強引に事を運ぶくせに、最後の選択肢はいつだってオレ自身に委ねてくれる。
(……ほんと、オレの扱い方を誰よりも心得てるよ、お前は)
易々とその場所に納まってやるのは、簡単に負けたようでちょっと悔しいけれど。どうせ逃げられないのなら変なプライドは捨てて、早々に降伏してしまったほうがいい。
「……わかった。始業式に必ず返事するから」
覚悟を決めたオレは、安齋と新たな約束を交わした。
「ありがとうございます。じゃあ先輩、また始業式に。今日は本当に、楽しかったです」
全ては来週、始業式の日――――
名前の如く、何かを始めるには最高の季節だ。なかなか悪くない……そんな風に少し浮かれながら、オレは安齋の背中を晴れやかな笑顔で見送った。
――――だけどその唯一残っていた前方の道が、思いがけない『裏切り』という名の闇で硬く閉ざされてしまうことを、この時オレは知る由もなかった。