今日は夏休みに入る前の最後の休日。
……の、前日である花の土曜日。サタデーナイト。
窓を開けてベランダに出ると、夏特有の湿気を含んだ生暖かい空気が肌をじっとりと包み込む。
むせ返るような空気に晒されていたら、五分もしないうちに額から汗がポタリと流れ落ちてきた。
闇色に染まった空を眺めて、肉眼で見える星座を一つ一つ目で追いながら、ふと目を瞑り、耳を澄ましてみる。昼の間にあれほど耳障りだったセミの不快な鳴き声も、今は全く聞こえない。
―――辺りはひっそりと静まり返っていた。
毎週土曜日の夜、お互い何か特別な用事がある時(滅多にないけど)を除いて、予備校の授業を終えた律が自宅に帰ってから、オミヤを持参してオレの家(……もとい、本当の家主はしょっちゅう不在の居候賃貸契約マンション)に泊まりにやって来る。
翌日は学校が休みなので、夜遅くまで映画鑑賞をしつつ、二人でまったりと過ごすのが、高校入学当初からの恒例行事となっていた。
午後十時を五分過ぎた頃、Tシャツにスラックスという寛いだ恰好の律が、新作DVDを三本携えて我が家を訪れた。
手にはレンタルビデオ店の袋の他に、亜耶さんからの有り難い差し入れを持っている。
(いよっ、待ってました!)
毎度の事ながらこれが楽しみの一つでもある。早速キッチンで出来たての手作り弁当を心ゆくまで味わい、やっぱり和食はよいなあ……と、オレはしみじみ感嘆する(亜耶さんの料理は味は勿論の事見た目も華やかで、色とりどりにぎっしり詰められたおかずは食欲を誘うし、栄養バランスも抜群だ。本当、うちの料理オンチの鬼姉に見習って頂きたいものです)。
腹ごしらえも済ませた所で、いつものように八畳ほどあるフローリング仕様の、クーラーをガンガンにきかせたオレの部屋に移動した。
ドアを開けると、まず最初に目に入るのがここ最近活用が著しく乏しい、ただのオブジェと化した(要するに、全く使われていない)勉強机だ。その横には淡いグレーのシーツがかかった寝るためのシングルベッドがある。そして部屋の中央に正方形の小さなテーブルがポツンと置いてあるだけの、そっけないマイルーム。
だけどその簡素な空間の中で唯一オレがこだわりを持って購入したものがある。
それは、弱冠十五歳の高校生が自室に持つには多少贅沢と思われる42型のプラズマTVだ。味気のない部屋でこいつだけは、ちょっとした存在感を主張している(ちなみに律の部屋のTVは、オレのより大きくない。物凄くどうでもよい事だけど、自分的にこれ、ちょっと優越感)。
映画鑑賞をする時は必ず、オレご自慢のプラズマ大画面で見ているため、オレが律の家に行くよりも律がうちに泊まりに来ることの方が多かった。
うちはには姉ちゃんしかいないし、その姉も土曜日はいつも飲み会と仕事に明け暮れているので殆ど家に帰って来ない(たまに帰って来ても朝帰りだったり……)あの、不良娘め。
まあでも、誰もいない方が夜中でも音量とか気にしなくていいから、その辺は色々と都合が良いのだけれど。
「まるで南極に来たみたいだな……」
夜だというのに未だ湿気の篭る不快な空気の中、快適に過ごせるよう人工的に温度が保たれたオレの部屋に入った途端、律が呆れたように言った。
「いいじゃん、南極。涼しげで」
是非とも一度は行ってみたい土地だ。天然クーラーで電気代かからない上、あれだけ寒けりゃセミもいないだろうし。
「涼しいのはいいけど、これじゃ温度下げすぎで身体に良くない。夏休みの自由研究に、ペンギンの生息日記でもつける気か、お前は」
「あ、それいい!誰もやらなそうだし、ペンギンってこう、丸っこくって可愛いよなー」
「アホか。それは誰もやらないんじゃなくて、出来ない、の間違いだろ。……で、どれから見る?」
無機質でセミも逃げ出す寒さの南極チックなオレの部屋にソファなんて洒落たものは、当然ながら存在しない。
律は大きめのクッションを二つ重ねて座布団代わりにしながら、ベッドを背凭れにして座ると、借りてきたDVD三枚をオレに手渡した。
「今日は何を借りてきたんだ?……あ。これこの前、章太が面白かったって言ってたやつだ」
三枚あるうちの一枚は、去年の冬に劇場公開されたもので、興行収入の記録を大幅に塗り替えたと当時随分話題になっていた某有名ハリウッド女優主演のアクション・ファンタジーだった。ああ、これかぁ……と、横文字のタイトルを眺めながら、しばしの間逡巡する。が、結局「よし、これにしよう、決定!」とはいかなかった。
勿論洋画は嫌いじゃない……というか、大好きだ。
ただ、横文字を聞いているとすぐ眠くなってしまうので、吹き替え版の方が断然楽に見られるんだけど、律は逆に字幕じゃないといまいち臨場感に欠けるとかで、毎回日本語VS英語の音声争奪戦になる。
しかしお互いに意見を譲らないので、どちらか一方に決まらないまま、最終的には同じ映画を二回、字幕と吹き替えでそれぞれ見る羽目になってしまう。勿論それが面白ければ、何回見てもいいけど、たまにハズレのもので大して面白くも無いやつだったりすると、繰り返し見るのは結構つらい。
ところが、たとえどんなに予想していたものと違かろうが、見るに値しない駄作だろうが、必ず二回、最初から最後まで責任を持って(一体何の責任なんだか……)その作品を見届けなくてはいけないという、意地の張り合いが高じた、果てしなく意味の無い、馬鹿馬鹿しい謎のルールがオレ達の中で暗黙の内に定められていた。
そんなわけで、見終わるのに通常の倍時間が掛かるこれはひとまず保留にして、残り二枚から一枚選んで手に取った。
「あ……!何だ、もう出てたのか。これにしよーぜ、律!」
意気揚々と顔を上げて、さながら水戸○門の印籠のようにビシッと律の眼前に翳してやったそれは、毎年春に公開されているTVアニメシリーズの劇場版で、オレが今一番見たいと思っていたものだ。
(さすがはいとこ殿!オレの事を良くわかってるね〜っ!)
目の前に座っている男を、心の中でひっそりと称賛していたら、いつもの愛想の良さはどこに置いてきちゃったんだと言いたくなるような、そっけない回答が返ってきた。
「俺アニメは見ないから、パス。それはお前が一人で見ろ」
目の前に突きつけられた印籠もとい、アニメDVDは律の関心を欠片も引く事が出来ずに、僅か数秒であっさりと観賞を却下されてしまった。
「えーっ、何で!すっげー面白いのにこれ……お前は日本のアニメの素晴らしさを、ちっともわかってない!」
「わかってないよ。興味ないし。……これでいい?」
こいつ自分が興味の無い事には、ほんっと無関心なんだよなぁ……まあオレも人の事言えないけどさ。
アニメを断念したオレは気を取り直して、最後の一枚に目を向けた。
「……あれ。これってもしかして、邦画?」
洋画オンリーの律が邦画を借りてくるなんて、初めてだ。タイトルは『シュガーホリディズ』……聞いたこと無いな。
「……何これ。コメディ?面白いの?」
「……多分、ラブコメ?見たことないから良く知らない」
そりゃそうだけど。にしても、ラブコメって……何でまたそんなものを。しかも全然有名じゃないやつみたいだし。
「『店長おススメの一枚』ってポップに書いてあったから借りてみた」
たまにはこういうのもいいだろ?と言って、律はDVDをデッキにセットすると、部屋の電気を消した。
その映画は聞いた事も無いタイトルだけあって、かなりB級っぽい感じの内容だった。
……要は、あまり中身が無いっていうか。
これといって大きな事件が起こるでもなく、殺人犯を推理するでもなく、どこにでもいるようなOLの恋愛模様をちょっとコメディ風に描いた、他愛の無い日常の話。
恋愛モノなんて滅多に見ないから、何となく新鮮な気分だ。でもやっぱりいつも好んで見ているものに比べると、物足りない気がするのは否めず、半分も見終わった頃には既に飽きてしまった。
(―――んー……もう、眠くなってきちゃったな……)
欠伸を噛み殺しながら、隣で寡黙に見ている律にダメ元で話し掛けてみる。
「……何かこの主人公、薄情だよな。恋人が出来たからって親友ほったらかして、彼氏とばっかイチャイチャしちゃって」
「……そうか?俺も友達より恋人を優先するけどな。好きならいつも傍にいたいって思うのが、当然だろ?」
予想に反して、オレのとりとめのない感想に間髪いれず、返事が来た。同じくこの映画に飽きていたらしい(だって、いつもだったら見ている最中は話しかけても絶対返事しないから、こいつ)。 眠気を覚ますために若干ぼうっとした頭で、何となく会話を続ける。
「……そうかもしれないけど、いくら恋人が大事でも友達のこと蔑ろにするのって、ちょっと感じ悪くない?」
「―――それは仕方ないと思う。それだけ好きってことなんだろ、相手のことが。俺はむしろこの主人公の気持ちが良くわかる」
(え……そうなの?)
何かとても律らしくない意見を聞いたような気がして、正直驚いた。そういえば律とこんな風に恋愛の話をするのって、初めてかもしれない。
DVDの薄情な主人公の事なんて既にどうでもよくなっていたオレは、こいつの恋愛観みたいなものに触れてみたいという気持ちが突如湧いて来た。映画の内容にかこつけて、気になる事をさりげに聞いてみる。
「じゃあさ。律は彼女が出来たら、この映画の主人公みたく友達の事は全然ほっときっぱで、常にそっち優先って事?」
もしそうなら……これから先律に彼女が出来たとしたら、オレ達はどうなるんだろう。
律とは高校に入ってから毎日、行きも帰りも朝から晩までずっと一緒だったけど。休みの日だって、今日みたいに大抵二人で過ごしていたけど。
(こんな風に家に遊びに来て、一緒に映画を見る事も、もう無くなっちゃうのかな……)
胸の奥がチクリと痛むのを感じる。だけどその痛みがどこから来るのかわからないまま、オレはあえて知らない振りをした。
……何となく、深く考えてはいけないような気がしたから。
「そうだな。好きな子とはずっと一緒にいたいし、毎日会っていたい」
否定して欲しかった事をいとも簡単に肯定されて、今度は何故か、すごく面白くない気分になる。
勝手な想像かもしれないけど、律は彼女が出来てもあまりべたべたした付き合いをしないと思っていた。勿論、実際にこいつが今まで彼女とどんな付き合いをしてきたかなんて、全然知らないけど。
「……ふ〜ん。そ……でも、それって飽きない?」
「飽きない」
律は一片の迷いも無くきっぱりと答えを返してきた。
「…………」
何だろう。ますます自分の中の不快指数が高くなっていく。
理由もわからず嫌な気分になるくらいなら、これ以上聞かなければいいのに、この時どうしてか自分の知らない律の事を、もっと色々知りたかった。
オレは更に突っ込んだ質問を繰り返す。DVDは最早ただのBGMに成り果てていた。
「じゃあ浮気とかは、許せる?」
「浮気?絶対、許さない」
……何か言葉が勝手に「ゆるせない」から「ゆるさない」に変わってるんですけど……しかも『絶対』までついてるし。おまけにかなりの真顔、目が全然笑ってない。想像しただけで気分を害したという感じだ。
「で、でも浮気って、人によって基準が結構違うから、色々曖昧だよな?」
判断が難しいっていうか?
「……。多分基準は人より相当厳しいよ。独占欲強いから、俺」
さらっと言い切ったその言葉に、何故かどきりとする。
「……そ……う、なんだ」
「うん。好きな子には自分の事だけ見ていて欲しいし、ほんの少しでも余所見をしてもらいたくない。……自分以外の誰かと仲良くしゃべってるの見ただけでも、たまにムカついたりするしな」
勿論相手にもよるけど?と意味深な目線を送ってくる。
へえ……しゃべってるだけでも、か。それ、結構……いや、相当心狭くないか?
「それに相手が無自覚にモテるタイプだと、色々苦労が耐えないし。自覚が無いから常に隙だらけで、いつも心配で気が気じゃない」
無自覚にモテるタイプ……って、どんなのだよ?
それにしても、やたら細かいっていうか……随分と具体的な好みだな。
まるで特定の誰かを想定して言ってるみたいじゃないか。
(―――とくていの、だれか―――?)
頭の中に一瞬浮かんだその考えに、まさかと思い自ら否定する。どう考えても今の律にそれらしき彼女≠フ影はないように思えたし……これ以上深く考えたくもなかった。
「……なあ、律のタイプってどんな子?かわいい系?キレイ系?年上?下?タメ?外見と内面、どっちの方を重視する?」
矢継ぎ早に質問攻めをするオレにそれまですんなりと答えていた律は、今度は何も言わずにオレの目をじっと見つめた。
「…………」
(な、なんだよ……オレ何か変なこと聞いた?)
「……内緒」
「えぇーっ!なんで!」
他は全部答えてくれたのに、何でそこだけ黙秘なわけ!?すっげぇ、気になるじゃん!
「そのうちわかるよ」
「なにそれ……」
(そのうちっていつだよ……オレは今知りたいの!)
―――不満全開のオレに、律は「言うまでもないんだけどなあ。全然わかってないし……」と独り言のように呟いて、溜息を吐いた。なんだよわかってないって。わかんないから聞いてんのに。ムカつく!律のいけず……っ!
「もういい!それより、DVD巻き戻せ」
「はいはい。……つまんなくても、とりあえず最後まで見るわけね」
オレが不貞腐れて言うと律は苦笑しながらリモコンを手に取って、BGMに成り代わってしまった辺りまで映画を戻す。
碌でもない薄情な女が主役の(オレの機嫌が下降したのと同時に、彼女の立場もまた自動的に降格した。ただの八つ当たりだ)ラブコメ映画鑑賞を再開した。
相変わらずのんびりペースで話が進んでいた映画もやっと後半まで辿り着き、佳境に入ってきた。
さっきの予期せぬ恋ばなトークのせいで眠気が完全に去ってしまったため、寝ることも出来ずにここまで見てしまったのだ。
ふと横にいる律をこっそり視線だけで窺ってみると、何故か律はTV画面の方ではなく、オレの顔を見ていた。
「……な、何だ、よ……」
「いや。熱心に見てるなぁと思って」
そりゃあ見るだろ。一応、お金払って借りてきて貰ってるんだから。
「……これ、演技なのがもろバレだな。してないのが、まるわかり」
「えっ……そうなの?」
律の言葉を意外に思ったオレは、画面に流れている主人公と恋人のキスシーンを食い入るように見つめた。
「うん。この角度はしてない。多分寸止め」
「えーっ、してるように見えるけどなあ……」
「……してないよ。だって、ほら―――」
そこで一旦言葉を切って、律はオレの顎を指で掬うようにして持ち上げた。は?え?と呆けている間に、律の顔がどんどん近付いてくる……って、ええっ!?
(ちょ、ちょお、ちょおおっとおおお―――っ!)
心臓がドキンと音を立てて跳ね上がった。
少し熱を持った律の吐息がオレの頬にそっとかかり、声を上げそうになってしまうのを何とか堪える。ありえない至近距離に、震えながら息を呑んだ。もうあと十センチ……いや五センチでも前に動けば……唇が触れ合ってしまう―――
(な、な、な、なんだこれ……っ、ちち、ち、ちかいって!ちかいいいいい!)
「こんな感じだよ、多分。このくらい近ければしてるように見えるだろ?」
「見える見える!わかったから!ちょっと離れろ……っ」
両手で律の肩を掴んで押し返そうとしたら、逆に手首を捕られて突然床に押し倒された。オレの腕を押さえつけたまま、律が体重をかけるようにして上から覆いかぶさってくる。
(ぎゃーっ!なななんだこここここのたいせいはーっ!)
「何、ホントにされると思った?」
「おおおもってないっ!」
それより、早くどけよっ……!重いんだよ、ばかりつ!
「でも、ドキドキしただろ」
「し……っしてない!」
「嘘。顔赤いよ。真っ赤」
「……!ちが、これは、その……へ……へやが、あつくって、だから……」
苦しい言い訳だ。どう考えても部屋が暑いわけがなかった。だってここは今、南極地帯を地でいってるのだから。
「ふうん……そう」
じゃあ、寒くなるようにホラーでも借りてくれば良かったかな、なんて嫌味を言いながら律は意地悪な顔で笑っている。
「いいから、どけってば!重い……っ」
躍起になって手首を掴む律の手を外そうとしても、存外強い力で押さえつけられているらしく、全然動かせない。
オレと律じゃかなりのウエイト差がある。それに比例するように、力の差も歴然としていた。
心臓はさっきの比じゃないくらいドキドキバクバクいっている。多分顔も指摘されたとおり相当赤いだろうし、心なしか息も苦しくなってきたような気がする。
そういえばつい最近も、保健室で似たようなシチュエーションに遭遇した。だけど、あの時よりも格段に心拍数は上がっていて、最早緊張するとかいうレベルを遙かに超えている。
睫毛の量を悠長に数える余裕も、反抗心溢れるノリで嫌味を言う気力も、今はまるでなかった。
律がいつも好んでつけている嗅ぎ慣れた香水の甘い香りが鼻腔を擽り、クラリと眩暈がしそうになる。
「腕、は、はな、せっ……も……っ、何なのお前!」
「……ん?いや、折角だから続きも実践してみようと思って」
続きというのは、まさか今見ているこのDVDの事だろうか。画面を見ると、キスシーンの後恋人達はベッドの中で、二人仲睦まじく抱き合っていた。
(……これの真似って、ど、どこまでする気なんだ、こいつ!)
「しなくっていい、そんなの!」
―――もう駄目だ。
この近さに、体勢に、触れ合う体温に、オレが持っている羞恥というカテゴリーが限界極限までいってしまって、色々耐えられない。何をこんなに焦っているのか自分でもよくわからなかったけれど、とにかく何かが非常にまずい。
全身が熱を持ったように熱くて、ドキドキと脈打つ心臓の音が煩くて仕方なかった。
ここは擬似南極地帯のはずなのに、何でオレの身体は常夏の島にいるみたいにこんな汗だくなんだ。クーラーはちゃんと機能しているのか。もしかして、壊れちゃったのかな。
なんだどうした、買ってからまだそんなに経ってないはずだぞ、この役立たずのポンコツめ!
よし、ここは一つ販売元のメーカーに連絡して……いや、メーカーじゃなくってこれを買った店の方か?……まてまて、こういう時はきっとお客様センターの方だな!
(―――と、とにかくなんでもいいから速攻お問い合わせをして、すぐさま苦情を言ってやりたい!)
「く、くーらーがいしゃにひとこともんくいってやる……!」
「……は?」
軽いパニックに陥ったオレは、そんな事を高速スピードの勢いで考えていたものだから、結果支離滅裂な結論だけが口から零れてしまった。
突然発したオレの意味不明な言葉に、律があっけにとられたような顔をする。その時オレの両手首を押さえつけていた手から一瞬力が抜けた。それを見逃さなかったオレは、律の腕からようやく逃れられた。
「なに?クーラーが、どうしたって?」
「な、なんでもない……」
大いなるひとり言だから全然気にすんな。そう言ってオレはグダグダになった自分の身体を叱咤激励しながら、何とか起き上がって暫しの間息を整える。深い深呼吸を繰り返していくと、次第に落ち着いてきた。ハァ……
さっきまであんなに熱かったのに、気づけば不思議とその熱もどこかに消えてしまっていて、肌には寒すぎるくらいの冷たい空気があたっている。部屋は相変わらず南極だった。周りに氷が落ちていないのが不思議なくらいの寒さだ。
(……おかしいな。さっきは確かにクーラーきいてなかったみたいだったのに……)
「どうする?DVD、また巻き戻す?」
律の言葉にハッとして画面を見れば、オレ達が馬鹿な事をしている間に、いつのまにかストーリーは終焉を迎えていたらしく、エンドロールが流れていた。
「……や。もう、いい」
何か無駄に疲れた……こういう時はもう寝てしまうに限る……全然眠くないけど。
「オレ、今日は先に寝るから」
残りのDVD鑑賞を早々にリタイア宣言して、そそくさとベッドに潜り込む。壁の方へ身体を向けて、タオルケットと薄手の上掛けを頭まで被った。
きつく目を閉じて心の中で「羊がいっぴき羊がにひき……」とよくある子供騙しのオーソドックスな睡眠促進法の言葉を、まるで呪いの呪文をかけるかの如く必死で唱える。
五匹目の羊を数えた所で背後から冷気がスッと入って来て、その直後にあたたかい体温がオレの身体を包んだ。
(―――っ!)
「な、に……っ」
「お前がもう見ないなら、俺も寝ようと思って」
「あ、そ……そう……」
律が布団の中に入ってきた途端、またオレの周りの空気の温度が上昇したような気がする。そしてさっきまでちゃんとおさまっていた胸の鼓動も、再び騒ぎ出してしまった。
「も……もうちょっと、は、離れろよ……っ」
顔も身体も律のいる方向とは逆を向いたまま、オレは懇願するように言った。
こいつは寝る時に何かを抱えて眠ると安眠出来る癖があって、いつもオレをぬいぐるみ宜しく抱き枕がわりにしている。
今も律の腕はちょうどオレの腰の辺りを、後ろから抱えるようにしていた。
「……何で?いつもしてることだろ?」
離れろって言ってるのに、腰に巻きつけた腕の力をますます強くして傍に近付いてきた律は、オレの耳元で囁くように言った。
優しく耳朶に触れる吐息がくすぐったくてふるりと肩が小刻みに震えてしまう。それがとても恥ずかしくて、顔や身体に火が灯されたようにまたジワリと熱くなってくる。
やっぱり、クーラーは故障しているのかもしれない。
「あ、あついんだから、これ以上ひっつくな。寝られないだろ……っ」
「……だったら、もっと涼しくなるように、クーラーの温度下げようか」
それとも冷蔵庫から氷でも持ってくる?とからかうような口調で答えた律は、オレから離れるという選択肢は全くないのか、オレの言う事なんか完全に無視だった。
おまけに「本場の南極に負けないくらいの極寒にしてしまえばいい」と正気じゃないことを笑いながら言って、枕元にあったリモコンを手に取った。
どんなに温度を下げたって無駄だ。この熱さはきっと無くならないだろう。
……だって、壊れてちゃってるんだから。このクーラー。
明日起きたら何があろうとも、まずエアコンの修理の依頼をしてやる!と固く心に決めて、再び目を閉じる。
一向に冷める気配のない、原因不明の熱に浮かされてみる夢が、どうか恐ろしいものでありませんように……と密かに祈りを捧げながら。
【ACT9】END