「今日のB定って何だった?まさか今日に限って鰤の照り焼き定食とかじゃないよな!」
「確か、今日は鯖の味噌煮だから早く行かなきゃって、章太が張り切ってたぞ」
「マジで?早くしないと売り切れちゃうじゃん!……なぁ律、ネクタイやって」
制服に着替えてから、残っていたコーヒーを一気に飲み干してカラカラだった喉を潤す。これで準備は万端だ。
最後の締めであるネクタイを手に取り横でオレのジャージをたたんでいた律に(こういう時いつも、オレよりもこいつの方がよっぽど奥さんに向いていると実感する)向かって、放り投げた。
「お前ね。たとえうまく出来なかったとしても、最初の一回は自分でやらなきゃでしょう、まったく……」
渋い顔をしてぶつぶつ文句を言いながらも、律はオレの首にネクタイをかけて結び始めた。
「えー……だってさ、どうせオレがやってもまたやり直してもらうんだし。二度手間じゃん」
それに今、すっげえ急いでるから。緊急事態なんだってば。鯖の味噌煮がオレを待ってんの!
「それじゃいつまでたっても進歩しないだろ。出来ようになるまで、とにかくやらないと」
出来るようになるまでやるなんて、そんな根気ありません。
……そういえば昨日も、似たような事を姉ちゃんから言われたな。律って時々、姉ちゃんと言う事が被ってんだよなあ。特に説教に関しては。
正真正銘血の繋がっている実の弟のオレよりも……何千?何万?何億分?の幾つかわからないけど、極めて少数の共通する遺伝子を持ったいとこの律の方が、うちの鬼姉とどこかしら通じるものがある気がする。いや別に、だからどうというわけじゃないんだけど。
気が合うのは、大変結構な事ですし?微妙に疎外感なんてものを感じちゃってるとか、そんな事は断じてないですし!
……でも姉ちゃんと律が二人揃った時って、すっげー凶悪なんだよな色々と……
「はい、終了。……身体はもう平気か?」
「あ〜、うん。ちょっとまだだるいけど、寝たから大分良くなった」
「じゃ、そろそろ行くか」
律は綺麗にたたんだジャージをオレに手渡すとドアに向かって歩き出した。が、数歩歩いた所で「あ、そうだ」と何か思い出したように急に足を止めて、振り返った。後ろにいたオレは律の身体に危うくぶつかりそうになる。
「なんだよ律。急に立ちどまるな!」
「いや。そういえばまちこちゃんに、出て行く前に一応体温測っておいてくれって言われたんだった」
律はオレの手を引いて再びベッドの所まで行くと、サイドテーブルの上にあった箱の中から体温計を取り出した。
(―――ほんっとこいつ、こういうとこは変に几帳面だな。自分の事に関しては結構いい加減なくせに……)
「ほら、これ」
差し出された電子体温計を一旦受け取り、そのまま入っていた箱に戻す。
「いーよ、そんなの測らなくって。どうせ熱なんかないし。それより早く行かないと、鯖の味噌煮が売り切れちゃうだろ!」
だから早く食堂に……足早に歩き出すと、律は「ちょっと待て」と言って、オレの肩を掴んで振り向かせた。
何だよもう、急いでるんだってば!と少しイラついた声でオレが言えば、仕方がないという顔をした律が、オレの目線ジャストの高さまで背を屈めてきた。そして何を思ったのか、右手でオレの前髪をかき上げてくる。
されるがままで成り行きを見ていと、律はあいている左手を自分の額に持っていって、オレにしたのと同じ様に今度は自分の前髪を全部上げて、綺麗な額を露にした。
ああ……こいつ前髪上げるとますます伯父さんそっくりだなぁ……なんてぼんやり考えていたら、切れ長の瞳を静かに閉じた律が端整な顔をゆっくりとオレに近づけてきた。
(―――えっ?)
「……っ……」
コツン、と小さな音を立てて合わさった額から、律の体温が直に伝わってくる。目の前には視界がぶれそうなほど近くに律の顔があった。あまりの近さに驚きで声も出ない。
こんなにも間近でこいつの顔を見るのは初めてで、そのせいか妙な感じがして、心臓が勝手にドキドキしてしまう。
息を止めて固まっていると、律の吐息が一瞬だけ、オレの唇をそっと撫でていった。
鼓動はますます激しさを増し、何故か段々居た堪れない気分になってくる。身じろぎすることも出来ずにいたオレは、原因不明の不整脈を抱えたまま、律の無駄に長い睫毛の数を意味も無くひたすら数えていた。
(……なんていうか、その……とても緊張するんですけど、これ……っ!)
「な…なっ……なに、してんの……」
無言でいるのがどうにも堪えられなくて、若干震える声で問いかけたオレに「君の熱を測ってます。未来の医者だしね、俺」と笑いを含んだ声で律が答える。
ねつって、いしゃって……ああ、そう。
「そう、ですか……」
こんな風に額で体温を確かめるのなんて、何年ぶりだろう。多分小学校の時以来だったかな、懐かしいなぁ……何ていう思いは全然無くて、ただひたすら恥ずかしい。
額は未だにくっついたままだし……まだ終わんないのかよ、これ……ちょっと、もう。
(どうしたらいいわけ、オレ!)
「……い、医者のたまごのくせに。こんな原始的な方法で、オレの緻密な体温の正確なデータを導き出せると本気で思ってるんだ、律せんせいは?」
そわそわして、物凄く落ち着かない気分続行中のオレは、わざと普段は言わない『せんせい』という呼び方で、嫌味を込めて言ってやった。
「現代の最先端技術で作られた高性能な電子体温計をしっかり拒否っといて、何を言う。―――君みたいに、せんせいの言う事をちゃんと聞かない我侭な患者さんは、長生きできないよ?……俺の平熱が大体五度八分くらいだから、これだと六度三分ってとこかな……」
律は閉じていた目を開けると、自分の前髪を抑えていた手を外して今度はオレの首筋に当ててくる。まるで本物のお医者さんみたいだ……所で、何だったのさっきの会話は。
思わずノッちゃったけど……よく考えたらおかしいよな。いい歳して『お医者さんごっこ』って。恥ずかしい……他に誰もいなくて本当に良かった。
「……うん。熱はないみたいだし、体温計で測らなくても、大丈夫だろ」
そう言って律が額を離そうとしたその時、背後でガラガラーッと勢い良く音を立ててドアが開いた。
「―――……あら。もしかしてお邪魔だったかしら、わたし。いや〜んっ、ごめんなさねぇっ!」
言うほどちっともいやぁんな顔をしていない、むしろ満面の笑顔でドアの前に立っていたのはこの部屋の主である田
「邪魔だなんて、とんでもない。男ばかりのむさ苦しい園に潤いを持たせてくれる貴重な女性ですから、大歓迎ですよ」
律はオレの身体を離すと、すかさずいつもの営業スマイルで目の前にいる貴重な女性(年齢はこの際関係無いらしい)に歓迎の意を述べた。
「まっ!やだぁ!安齋君ったらもう、お上手ねえ!さすがはうちの無敵の王子だわ〜」
(だから全然、やだぁって顔には見えないって……)
王子の見え透いた甘言にうっとり頬を染めながら、まちこちゃんは軽やかな足取りで部屋に入ってきた。
「休憩行ったんじゃなかったの?まちこちゃん」
多分今、保健室にある仕切りカーテンだとか、消毒に使う脱脂綿とかの、地味でちっぽけな存在程度にしか認識されていないだろうオレが、他愛も無い質問をする事で自己主張を試みる。
「そうなんだけど、私、外に行くのにうっかり携帯忘れちゃって、戻って来たのよねぇ。ほら、もし何かあった時に連絡取れないとまずいでしょう?……あらぁ〜、小原くん。そういえば寝てたんだったわねぇ。どう、具合は。元気になったかしら?」
「はぁ……まあ、一応……」
まちこちゃんはようやくオレに目を向けた。予想通り付き添いの律にばかり目がいってしまって、保健室の主役である病人のオレなどさっぱり眼中に無かったらしい。
(律……お前実は女の人だけが反応して寄って来るっていう、目に見えない怪しげなフェロモンか何かを身体からこっそり振りまいているんじゃないだろうな)
ってそれじゃまるで交配期の虫みたいじゃね?りつむし。何かすっげぇ強い毒とか持ってそうなイメージだ、こわっ。
「熱もないみたいだし、やっぱり寝不足が原因だったみたいです。どうもお世話になりました」
律は礼儀正しく御礼の言葉を述べると、立ち止まっていたオレの肩に手を回して先を促した。
「ど〜も。ありがと、ございました……」
オレは軽く、会釈程度にぺこりと頭を下げておく。
「い〜え、どういたしまして。君達みたいに綺麗で可愛い子ならいつでも大歓迎よお!ほんっと、目の保養になるわぁ〜……一人ずつでも勿論だけど、二人揃うとなお一層素敵な絵になるわねえ……うふ。うふふっ。うふふふふっ……」
「……は、い?」
まちこちゃんは奇妙なオーラを周囲に漂わせて、薄笑いを浮かべながら自分の世界に入り込んでしまっている。
(だいじょうぶかなあ、このひと……)
異様なテンションに若干引きながら、その様子を遠巻きに眺めていると、律がまちこちゃんに向かって「それじゃ」と爽やか王子必殺のキラースマイルを贈った。
直後室内に響いた、きゃあ〜っ!というとても四十代女性のものとは思えない、色めいた甲高い悲鳴を耳にしながら、オレ達は保健室を後にした。
*****
一階の西校舎にある食堂に行くと、昼休みも半分を過ぎた頃なのでいつもに比べて空席が目立っていた。
生徒の殆どが毎日利用するこの学生食堂は、昭和な香りのする「大衆食堂」とは全く別次元のもので、宛らお洒落なカフェテラスかレストランのようだ。
私立高校らしく無駄にお金をかけたと思われる立派な外観やその他諸々、かなり豪華な造りになっていた。
三階まである吹き抜け式の天井はかなり高く、開放的な雰囲気を感じさせる。入り口を入るとすぐに見渡せる正面の壁は一面全て窓だ。今日みたいに天気の良い日はそこから太陽の光が射し込んで、オフホワイトで統一された清潔感溢れる空間を更に明るく見せていた。
窓から外に出ると、地面には目に優しい色鮮やかなグリーンの芝生が余す所無く敷き詰められている。その周りには、ホテルなどでよく見かける背の高い大きな木々達が、青々と茂った葉っぱをユラユラと風に靡かせながら、優雅な佇まいで並んでいた。
ここは自然を愛するオレが、この学校で一番好きな場所だ。今は夏なので冷房のきいた部屋から出る事は無いけど、桜が咲くお花見の季節や、葉っぱが赤や黄に色づく紅葉の季節には、外にも幾つかのテーブルと椅子がセッティングされて、ちょっとしたオープンカフェみたいになる。
窓の外の景色だけ見ていると、学校というよりは夏によく行く人気の避暑地、軽井沢とか那須高原あたりの別荘にでも来ているような気分を味わえる。
実際、お坊ちゃんの金持ちが多いうちの生徒の何人かは、そういった避暑地に別荘を持っていることも少なくないのできっとその辺の事も意識して造られたんだろう。
そしてまた、造形以外の食堂本来の目的である食事の味はどうなのかというと、これがまたどのメニューも期待を裏切らない素晴らしい味だった。
十二時ジャスト、昼休みの始まりと同時に出される基本の定食はA、B、Cの三種類ある。
A定食は食べ盛りの十代の学生に合わせた、しょうが焼きや酢豚など肉がメインのボリュームたっぷりの定食で、三つの定食の中では一番人気だ。
B定食は主に魚がメインで、秋刀魚の塩焼きとか鰤の照り焼きとか若干量的には物足りなさを感じるものの、ヘルシーで飽きのこない家庭的な味は評判も良く、肉よりも魚の方が好きなオレはいつもこのB定を食べている。
C定食に関しては、ハンバーグやドリア、スパゲッティーといった洋食がメインだ。これはA定に次いで人気がある。
あまり油っこいものが好きじゃないオレは、たまに好物のビーフシチューが出た時くらいしか食べないけれど、お子様メニュー大好きな律はC定が一番お気に入りだ。
これらの定食は基本的に全て数量限定の早い者勝ちなので、大体いつも十五分か二十分もすれば売り切れてしまう。
そうすると定番のラーメン、カレー、うどん、そば……と食べ慣れた(食べ飽きたとも言う)単品メニューをしぶしぶ頼むか、コンビニの約半分くらいの大きさの売店に行って、某有名ベーカリーから仕入れているという、手作り調理パンを食べるかになるわけだ。
パンも美味しいけど、いまいちお腹にたまらないというか、物足りないのがたまにきず、かな。
「あれっ、ひめ、もう起き上がって平気なのー?」
「ゆうき姫ー!身体大丈夫かぁっ?」
遅れて食堂に入ると生徒達が一斉に声を掛けてくる。癇に障る単語にこめかみを引きつらせながらも、
「どうもー。無事生還しましたー」
と、挨拶がてら一人一人に軽く会釈して通り過ぎていく。
声を掛けてくるのは同級生ばかりでなく、二・三年の先輩も幾人かまじっているので、あまり露骨に嫌な顔するわけにもいかないのが辛い所だ(心配してくれるのは大変有難いが如何せん姫という言葉に引っ掛かりを覚えてしまう)。
「B定もう売り切れてるよなぁ……」
殆どの生徒が既に食事を済ませて、食後のティータイムに突入している。さっきチラッと覗いたカウンターには既に、三つの定食の姿は無さそうだった。
オレ達ははひとまず、いつもの定位置である後方窓際の席に向かった。
「あ、悠ちゃんっ!もう大丈夫?体調良くなったぁ?」
談笑しながら食事をしていた章太がオレに気がついて、一番に声を掛けてくる。
「よっ、おかえりー!よく眠れた?」
「いーなぁ。悠生、重役出勤。ほぼ半休じゃ〜ん」
続けて、労わりだか羨みだかわからん事を呑気に言って、食後のコーヒーを優雅に飲んでいたのは、同じ5組の奴だ。
章太の隣に座っているのが相葉一彦(あいばかずひこ)でその前の席にいるのが大内朔哉(おおうちさくや)だ。
二人とも章太と同じN中の出身で、朔哉と章太は小学校の時から付き合いがあるという、所謂幼馴染の関係だ。
朔哉と一彦は中学三年間同じクラスで、一彦と章太は中学の時は接点がなかったけど、高校に入学してからは朔哉を交えてよく三人でつるむようになったらしい。
そこへ、ちょうど律が一彦と同じ予備校に通っていたり、出席番号の関係で席が近かったりと(オレと章太の前後に加え、律の前の席が一彦で、後ろが朔哉だ)縁があって五人で仲良くなってからは、プライベートでも一緒に遊ぶ事が増えてきた。最近休み時間は大抵、この面子で過ごしている。
「寝たけどさ……まだ少し眠いし、ちょっとだるい」
八人がけのテーブルの窓際に一人で座っていた朔哉の隣にオレが腰を下ろすと、
「もうっ、無理しちゃ駄目だよ、昔っから美人薄命っていうし!悠ちゃん、細いしっ。自分一人だけの身体じゃないんだから、くれぐれも気をつけてね!」
オレの大好きな鯖の味噌煮を口に入れながら、章太は割り箸を握り締めて力説した。
……喋るのか食べるのか、どっちか一つにしろよ、行儀悪いな。それと、自分一人の身体じゃないって、じゃあ他に誰のものだっていうんだ……おいこら。サラッと人の事を妊婦さんみたいに言うのはよせ―――!
「で、そろそろご注文をお伺いしても宜しいでしょうか?」
怒りの沸点が一気に上がりそうになったオレに、横に立っていた律がウェイターの如く恭しくメニューを聞いてきた。
「え?あー……どうしよ。どうせ定食、もうないしなあ。何でもいーや、まかせる」
「わかった。今とってくるから、お前は座って待ってな」
「うん。あ、律!ついでにコーラも飲みたい」
「はいはい、コーラね。了解」
「「「…………」」」
よろしく〜とヒラヒラ手を振って律を送り出してから身体を正面に向けると、三人共何か言いたそうな顔でオレを凝視していた。
「……?何だよ?」
「いやぁ……相変わらず悠生は律のお姫様だなぁ、と思って」
「確かに〜律ってほんとマメというか、王子のくせに面倒見いいよなー」
「せんせいの場合、王子っていうよりも、悠ちゃんの侍女だよねぇ〜」
何を思ったのか、三人はオレに向かってというよりも今席を外している律に対して、意味不明な評価を付け出した。
「はぁっ?何だそれ……っていうか一彦てめぇっ、ひめって言うな!」
「だって、ひめじゃん。色んな意味で」
ピッと、人差し指でオレの顔を指しながらふてぶてしい顔で一彦が言うと、
「そうそう。りつ王子を跪かせることが出来るのは、ゆうき姫だけだもんな〜お姫様の特権?」
一彦の言葉に乗っかって、笑顔の朔哉が禁句を連発してくる。
あ〜もうっ、こいつらムカつくな!
「別に……!いとこ同士だからな。うちの親に色々頼まれてんだろ、きっと」
ここで怒るのは大変大人気ないので、努めて冷静に事実を述べておく。
「う〜ん……そういうのも勿論あるだろうけど。せんせいの場合、ちょっと違う気がするよねぇ……」
噛み締めるようにして鯖を食しながら神妙な面持ちで零した章太の言葉に、一彦と朔哉は二人揃ってうんうん、としきりに頷いている。
(……どうでもいいから、お前、早く食えよ!目の毒なんだってば、さっきから!)
「章太、お前食べるの遅すぎじゃねえ?」
常日頃から思っていた事を八つ当たり半分疑問半分でオレが聞いてみると、章太は付け合せのポテトサラダを食べていた箸を止めて、オレをじっと見返してきた。
「……悠ちゃんあのね、早食いは健康に良くないんだよ〜?カズ君と朔ちゃんも、もっとゆっくり時間をかけて食べないと。一口につき約五十回噛むのが身体にいいんだって!」
「五十回も噛めねぇよ、オレ……」
そんなにゆっくり食べてたら、食べ終わる前にお腹一杯になっちゃうじゃん。
「おれも無理。でも章太はダントツだけど、律も結構食べるの遅いよな」
「うんうん。しかもこの五人の中で一番偏食だしなー、律」
おおっ。さすがに毎日顔を会わせているだけあって、こいつらも律の事を良くわかっているみたいだ。
―――でも、まだまだ甘いな!
「食べるのが遅いのはまだ、いいとして。問題なのはやっぱ味覚だって、あいつの場合。好きな食べ物はみーんなお子様仕様で、男のくせにコーヒーに砂糖とミルク入れすぎだし。あれ、将来絶対糖尿病になると思う!」
「―――俺が、何だって?糖尿病?」
噂をすれば何とやら。後ろを振り返ると、近づくまで全く気配を感じさせなかった律が両手に二人分のトレーを持って、立っていた。
「いや、なんでもな……えっ!B定、残ってたのかっ?!」
律が持っていた左手のトレーにはなんと今日、オレが食いっぱぐれた大好物の鯖の味噌煮定食があって、しかも右手にはこれまた早々に売り切れたと思っていた本日のC定、律がお気に入りのオムライスハンバーグセットまである。
「実は保健室行く前にここに寄って、事情話して取り置きしてもらったんだ」
「マジで!やった、これ超食べたかったんだよ〜味噌煮!」
「うん。そうだろうなーと思って」
「「「…………」」」
オレと律の会話を聞いていた三人は、それぞれ何ともいえない複雑な表情を浮かべて、こそこそと井戸端会議を始めた。
「ほんと、気が利く王子様だよな……」
「っていうかあれ、ちょっと甘やかしすぎなんじゃ……」
「でも多分。せんせい、自分もオムライス食べたかったからっていうのもあるよねぇ……」
休み時間も残り少なくなってきたので、とりあえず外野の呟きは無視して、急いで遅めの昼食を食べ始める。
「それで、さっきの糖尿病がどうのっていう話は、何?」
律はオレの右隣の席に座ると、さっきの言葉をしっかり聞いていたらしく、早速質問してきた。
(あれっ。ま、まずいな……どーしよ)
「え〜あ〜っ、いやあナンノハナシだったかなー……あはは」
B定を前にして何も言えなくなったオレが、小声で言葉を濁して曖昧に言うと、
「「律は将来成人病になること、間違いなし!っていう話」」
一彦と朔哉が声を揃えて高らかに言った。
(ぎゃあっ、こ、この馬鹿野郎ども!)
慌てふためくオレとは対照的に、いつものこと、といった感じで意にも介していない様子の律は、黙々とオムライスを口に運んでいる。
「お前ら、余計な事言うなっ!」
「僕は何も言ってないからね!悠ちゃんっ」
「だって悠生、さっきそう言ってただろお〜?男のくせに、なんとかーって」
コーヒーを一口飲み込んだ一彦が余裕の表情で言うと、
「言ってた言ってた。味覚が幼児並みで、超甘党〜って」
調子に乗った朔哉が、更に一彦の言葉に追い討ちをかけるような事を言う。
こういう時になると、この二人は妙に息が合うというか、性質(たち)が悪いっていうか!自分達だって食べるの遅いとか偏食とか、散々言ってたくせに!
「でもほら、せんせいのお家の人お医者さんだから、病気になってもすぐに治してもらえていいよねぇ〜」
ようやく昼食を食べ終わった章太が、オレに対してなのか律に対してなのか定かでない、今一ピントの外れたフォローを入れた。
「……ひとの将来を心配している暇があったら、自分の事をもっと考えろ。何なら今から職員室前の告知板見てくるか?」
アイスミルクティー(ガムシロ四個入り、オエッ)で喉を潤した後、律はオレを横目で見ながら溜息を零して言った。
「告知板?何か今出てたっけ?」
もうあと十日もしないで学校は夏休みに入るし、テストも昨日ので今学期最後だったはずだけど。
「あ〜あれねぇ……悠ちゃんが寝てる間に貼り出されたんだよね〜」
「せっかく高校入って始めての夏休みだってのに、悲劇だよなー」
章太が珍しく表情を曇らせて言うと、一彦も眉間に皺を寄せて頷いている。
「いやいや、さすがは我らが名門西園寺。やっぱり休みの時にこそ勉学に励みなさいっていう事なんじゃ……」
朔哉は比較的穏やかな表情で一人頬杖をついていた。
(……一体、何の話だ?)
「休みの時ぐらいゆっくりしたいだろ。予備校だってあるし、なあ律?」
一彦が律に話を振ると「そーだな」と短く返事をして一人話が見えないままでいるオレに、告知板に出されたらしい、ショッキングな情報を厳密に説明してくれた。
「一学期の科目別成績不振者に対する、夏休みの特別補習と課題レポートが発表されたんだ」
「かもくべつせいせきふしんしゃって……ま、まさか!」
「当然、一桁だったお前の名前も該当者に載っていた」
何の科目かは、言わずもがな、だ。
(補習、レポート……夏休みにやれって、そんな馬鹿な!)
「えっ、お前は……」
……って、万年トップの律がそんなものに引っ掛かるわけないか。朔哉もその余裕な態度から察するに、全く問題なさそうだ。
朔哉は勉強に関しては律に近いタイプで、教科ごとの得意不得意の差がとても少ない。平均的に点数が取れるタイプだ。
どれか一つ飛び抜けて出来る教科は無いものの、総合で学年二十位以内には常に入ってくる。一彦は―――
「おれ、数学と理科はまじでヤバかったんだよなあ」
「カズくん、理系苦手だもんねぇ〜」
「予備校で事前にやっておいた予想問題が無かったら、アウトだったかもなー」
どうやらこいつも難を逃れたようだ。
一彦はオレと同じ文系タイプなので、国・英・社の三教科は得意だけどその分理系は苦手で、恒例のテストではいつも理・数共に八十一点や八十二点と毎回合格の八十点ギリギリのラインだ。
調子の悪い時は両方とも不合格で、レポートを四十枚書いている事が度々ある。今回は幸運な事に律も通っている大手予備校での予習が功を奏したらしい。
え……ちょっと待て。てことは、この中で補習組ってオレ一人だけ?嘘だろ……いや、いやいや、待て。
章太がいる!赤ペンせんせい章太さまが!多分こいつは、全教科引っかかっているはず―――……
「悠ちゃん、一人でちょっと寂しいだろうけど、夏休み頑張ってねっ!」
内心冷や汗をかいていたオレに、その汗が一気に引いていくような発言を章太がぶちかましてくれたおかげで、思わず左手に持っていた箸をスルッと床に落としてしまった。
「えっ!何でお前、入ってないんだよっ?!」
絶対お前は補習組だろ?昨日のテストだって、五教科全滅だったよな!
「それがさ、今回の補習、この前やった期末テストの成績を元に考えたらしいぜ」
章太のかわりに一彦が説明を続ける。
「きまつ〜っ?……って、オレ何点だったっけ」
「四点」
すかさず右横から正確で迅速な回答が返ってくる。
(……ああ、そういえば確かに、四点でした……)
「なぁ、章太って期末はどうだったんだっけ?」
期末は点数悪くても特にレポート提出とか無いから、よく覚えてないんだけど……
「章ちゃんってば、ちょうど期末ん時に例のあ・た・り・めがきたんだよな〜!相変わらず、運のいい奴」
朔哉が章太を指差しながら言うと、章太は心底申し訳なさそうな顔をして、、
「ごめんねぇ、悠ちゃん!僕ついててあげられなくってぇ」と言って、さっきショックの余りうっかり落としてしまった箸を拾うと、代わりの割り箸を透明ケースから取り出して、力の抜けたオレの左の手にしっかりと握らせた。
「さ、さいあくだ……」
頭を下げてガクッと項垂れていると、横にいた朔哉と前方の一彦と章太が、揃ってオレの頭を撫でてきた。
くうっ……マジで、泣きたい……
「あ〜もう、オレの夏は終わった……」
「まーまーそう落ち込むなって」
「そうそう。元気出せよ!」
そりゃ、お前らはいいよなぁ……楽しい夏休みをしっかり満喫できるんだから……ハァ。
「悠ちゃん、大丈夫〜?ショックでまた倒れちゃったりしないよねぇ?」
……いっそのこともう一回倒れて、起きてみたら既に夏が終わっていたー!とか、ミラクルな事が起きないかな〜
「ま、自業自得だから仕方ないな」
律が容赦無い言葉をオレに掛けたが魂が半分遠くにいってしまっているオレには、微妙に届かなかった。
あぁ〜、誰かミラクル〜……奇跡を起こしてくれ……
「あれっ、律、結構厳しいな」
「普段は一番、悠生に甘いくせにー」
「愛のムチだねっ!せんせいの」
まだ下を向いているオレの頭を、律は「起きろ」と言ってコツンと指で小突いた。
「だから言っただろ。お前は人の遙か遠い未来の心配よりも、すぐそこに迫っている現在の自分の事を考えろ」
確かに何十年も先の不確かな律の将来よりも、あと十日もしない内に確実にやってくる自分の夏休みの方が、よっぽど不安要素が一杯だ。
数日後に迫ったオレの雲行き怪しい未来に、果たして夢のようなミラクルは起きるんだろうか。
……多分九十九・九パーセントの確率で、それは夢のまま終わるだろう。
【ACT8】END