天を見上げればどこまでも果てしなく広がる夏の空。その中央にぼんやりと浮かぶものがひとつ。
太陽ほどの熾烈さは無いものの、慎ましやかな淡い光で地上を静かに照らしている、まるいお月様だ。
その周りには沢山の小さな星達が無数に散らばっていて、キラキラと忙しなく瞬いていた。
今見えているこの星の輝きはどれも皆、遙か彼方、気が遠くなるくらい大昔の残像の欠片に過ぎないのだと思うと、妙にセンチメンタルでノスタルジックな気分になる。
そういえば昔、星に似た形をした色とりどりの小さな甘い砂糖菓子の事を、空から落ちてきた流れ星の子どもだと本気で信じていた頃があった。
いつのまにか大人になって、そんなことはもう忘れてしまっていたけれど。
「律は流れ星って、見たことある?」
「流れ星?……ないかな」
「あ、やっぱり?見たことあるって話結構聞くんだけどさ。オレまだ一回もないんだよなー……」
「確率の問題だろ。ただ闇雲に空を見上げていても、見られるとは限らない。運が良くないと」
「そりゃそうだけどさ。でも下を見てたら絶対無理じゃん?」
「だからって、こんな人ゴミの中で上向いて歩いてたら危ないって」
「あ」
口をパカっと開けたアホ面で、空を見上げながらフラフラ歩いていたオレは、その指摘通り前方から来る人にぶつかり、そのまま人の波に呑み込まれてしまいそうになった。
隣を歩いていた律に腕を引かれて、間一髪の所でそれを逃れる。
「ほら見ろ、ちゃんと前見て歩け。……こんな所でもしはぐれたら、お互い見つけるのが大変なんだから」
「そしたら携帯で連絡取ればいいだけだし」
「こういう時は繋がり難くなるんだよ。それにお前、一人でいたらまたさっきみたいに、おかしな奴に声掛けられまくるぞ」
それでもいいわけ?と諭すように律はオレの頭を小突いた。
「……それはいやだ」
律の言うさっきのおかしな奴、というのは、よく都内に行った時に遭遇する鬱陶しいアレだ。ナンパとかいうやつ。
流れ星に出会える奇跡的に低い確率に比べると、何とも恐ろしいことに、百発百中のソレ。いくらなんでも高確率すぎるソレは、もはや確率の意味を成すのか甚だ疑問が残る。
ハズレ無しの十割なんて、ある意味こっちの方が奇跡なのかもしれない。
『外を歩けば必ず誰かが声を掛けてくる法則』は都内でなくても確実に発動するらしい。しかも相手は基本全て同性、男ときた(この性別の確率もほぼ百パーセントに近い。全く以って、どうかしている)。
世の中には有り余る程沢山の人間がいるのだ。
しかも今日なんて、周りを見れば綺麗な浴衣を着た色っぽいおねー様方をそこかしこで見かける。可愛らしく髪を結ったお洒落なお嬢さんだって、至る所にわんさといる。
なのにどうして、Tシャツに薄手のカッターシャツを羽織って、何の変哲もない七分丈のパンツを穿いているオレに、わざわざ目を付けるんだ。しかも今日は出来るだけ顔が見えないよう、目深に帽子まで被っているのに。
そんなオレの健気で涙ぐましい努力は、どうやらさっぱり効果が無いらしい。
それでも律と二人でいる時は、これまた最高潮に腹立たしい事に、カップルだとでも思われているのか(……百歩譲って多分律がオレの彼氏、という事なのだろう。断じてオレが律の彼女、ではない)遠巻きに見られる事はあっても、声を掛けられることは滅多に無かった。
ただ、さっき律が電話をしていてオレが一人になった時、十代後半と思われる、見るからに頭の軽そうなガン黒チャラ男若干一名に、慣れ慣れしく声を掛けられるという、非常に不本意な出来事があった。
いつもの事とはいえ半ばウンザリしながら、
「オレ、男なんですけど」
と、聞かれてもいないのにナンパされた時の定番のセリフを言うと(認めたくはないが、こういう場合十中八九己の性別が誤解されているだろう事を賢いオレは過去の苦い経験からしっかり学んでいた)、
「またまたそんな!冗談でしょー!」
と、ものすごく明るく、且つ爽快に笑い飛ばされた。
……ぬぁにがじょうだんなんだふざけてんじゃねえニヒャクパーセントほんきにきまってんだろーがおまえのそんざいのほうがよっぽどじょうだんみたいだっつうのおとこがおとこにこえかけてよろこんでんじゃねえよこの、どへんたい!
―――と、内心で思いっきり毒づきながら、
「いえ、冗談じゃないです。オレ、男、です」
根気良く、我慢強く、極めて冷静に大人の対応でありのままの事実を返せば、今度は。
「いやしかし、ほんとーにかわいいよね〜君。今何歳?花火見るのなんかやめてさ、これから二人で遊びに行こうよ?」
……更にしつこく誘いをかけてきやがった。
男だって言ってんのに。人様の有り難いお話なんかこれっぽっちも聞いちゃーいない。ムカつく。
ヘラヘラとにやけた浅黒い顔に、二・三発……じゃ足りないな。最低でも七発くらいは気合を注入してやりたい気分だ。思わず拳を握る手に力が入る。
(いや、こんな所で喧嘩はまずい。耐えなければ、男は何事も我慢だ……!)
理性を振り絞って己に言い聞かせ、修行僧になったつもりで懸命にこの苦行に耐えていた。しかしそんなオレの不穏な空気を欠片も読めずに、あろうことか更に調子に乗ってきたこいつは、
「どこかいきたいトコって、あるぅ?やさしいおにーさんが、どこでも好きなトコに連れてってあげるよ〜!君みたいにかわいい子なら、何でもいう事聞いてあげちゃうぞー!」
と、相手(この場合、該当者はこのオレだ)の意思は完全に無視のスタンスを決め込み、一人で勝手に盛り上がって話を進めてくるという、オレの怒りの炎になみなみと油を注ぐ暴挙に出た。
(いい度胸だこのやろう―――!ひとがせっかく、こんなに頑張って我慢しやっているというのに!)
くそ、やばい……そろそろオレの大変忍耐強い神経及び、繊細な血管がブチギレ寸前だと切実に限界を訴えている!
(何でも言う事を聞くだあ?ならさっさとオレの前から失せやがれ、この変質者め……!)
――あわや一触即発か、という所でやっと電話を終えたらしい律が、飄々とした表情でオレの隣にやって来た。
それまで全く人の意見も聞かず、気持ちの悪い笑顔で一方的にべらべらと喧しくしゃべりまくっていたそいつは、律の顔を見るなり意気消沈したような顔で急に閉口して、
「……何だ〜彼氏いたんだぁ。さすがにかわいいだけあって、君、イケメンずきだね〜……」
最早怒りを通り越して呆れるしかない、的外れな捨てゼリフを吐いて、そそくさと退散してしまった。
かれし。かわいい。いけめんずき。
……いったいどなたさまのお話をなさっているので?
まったく、人を馬鹿にするにもほどがある。
「またまたそんな!冗談でしょー!」と声を大にして言いたいのは、どう考えても圧倒的にオレの方ですから。
其処の所くれぐれも、お間違いなく!
*****
そんな一幕があった本日。
オレ達は今、地元で毎年盛大に開催される夏休みの一大ビッグイベント、花火大会に来ていた。
一年ぶりに来るこの祭りは、地方にしてはかなりの動員数で昨年に負けず劣らずの人で賑わっている。
この花火大会に来ると『ああ、夏休みなんだなあ……』と、今更何言ってんだ的な事を改めて実感すると共に『やっべ、どうしよ、宿題全然終わってねぇし……花火とか優雅に見てる場合じゃねー!』と、いい加減ほったらかしにしたままの宿題を何とかしないと、そろそろ本格的にまずいかも……という危機感を感じ始めるのだった。
今年の花火大会は、オレ達と例のメンバーの五人で集まる事になっていた。確か去年は、同じ中学の各クラスの男女が入り混じった結構な大人数で来ていたのを思い出す。
その中にはオレが当時特別に仲良くしていた女の子(簡単にいうと、彼女です)もいて、皆に見つからないように手を繋いで歩きながら「来年は絶対二人で花火見に来ようね」「同じ高校に行けるといいね」なんて、微笑ましい約束を交わしたものだ。
少しの懐かしさと、過ぎ去った恋のほろ苦い感傷に浸り、しんみりと思いを馳せていた―――のは僅か数分の事で。
(……それにしてもおっせぇな。何してんだ、あいつら!)
現在のオレは色気の欠片も無く、未だ全員揃わない今年のメンバーの動向を思案していた。
「なあ律、章太達まだ来ないのか?」
待ち合わせの時間になっても、オレ達以外はまだ誰も来ていない。
「さっき電話した時、章太と朔哉は今駅にいるって言ってた。……ただ一彦がまだ来てないから、揃ってからこっちに向かうってさ」
「ああ……やっぱり一彦なのかよ、遅刻の原因は」
オレ達五人で待ち合わせをした場合、遅れてくるのは大概いつも一彦だった。ちなみに遅刻の上位者、次点は意外にも律だ。
「そう、予想通り。この人の多さだと、最悪合流出来ないかもな。……まあその方が、俺は都合がいいんだけど」
「―――え、なに?今何か言った?」
「別に何も……この後どうする?俺達二人で先に会場行ってるか?」
「んー……屋台出てるのって確か、橋の入り口ん所だっけ。とりあえずそこまで行って何か食べながら待つ」
花火の打ち上げ会場になっているのは、普段は幹線道路の一角を担っている橋の下で、今日そこには沢山の屋台が出ている。祭りの醍醐味といえば花火ともうひとつ、やっぱり屋台の食べ物だ。焼きそばにお好み焼き、カキ氷にクレープ、あとはお祭りでしかお目にかかれない、りんご飴も久々に食べたいし。
(これは絶対外せないよな。うーんどうしよう。まずはどれを一番に食べようかな……)
花より団子的な事を風情も無く真剣に考えていたら、律が「じゃあ、いくか」と言って、オレの左手を凄く当たり前のように自然に握って人ゴミの中を歩き出した。
(―――わ!ちょ、ちょっと!)
「律……っ!なに、何だよ、これ!」
「これ?これって、何」
え、え、と焦っているオレの手を引いて、背を向けたままさっさと前に進んでいく律は、わかっているくせに、すっとぼけた返事をした。
「これだよ馬鹿、手!……っなんで、手ぇ繋いでんの!」
しかも、ただ握るんじゃなくって、指と指を絡めあわせる、やつで。これって、その……せ、世間一般で言う所の、恋人繋ぎ、というものでは……!
「……お前が迷子にならないようにしてやってるだけだよ。それにこうしていれば思う存分、空見ながら歩けるしな」
―――流れ星、見つけるんだろ?
振り返った律は口の端を僅かに上げて揶揄を笑みに乗せながら、しれっとした口調で言った。
言質をとられる形になったオレは慌てて手を振り払おうとしたけど、それを制止するように、握られた掌にグッと力が込められて思わずドキリとする。
「……っ」
有無を言わさぬ強さできつく絡め取られた手は、簡単に解けそうに無い。オレはさながら、市場に売られていく子牛のような気分で大人しく律の腕に引かれて歩くしかなかった。
―――誰かとこんな風に手を繋いで歩いたのは、ちょうど去年の花火大会以来だ。
いや、正確に言えば彼女と手を繋いだ時だって普通に軽く、触れ合う程度に握ってただけで、こんな繋ぎ方はしなかった。
……それにあの時と違って、相手の手の大きさが全然違う。
オレの手を五本の指ごとガッチリ捕らえている律の手を、何とは無しに観察してみる。
男にしてはやや小さめなオレの手に比べると、律の方が大きくて指もすごく長い。少しだけ骨ばっていて、薄く血管が浮き出ている、繊細で男っぽい綺麗な手。
オレがいつまでたってもうまく出来ない制服のネクタイを器用に結んで、いつもオレの頭をあやす様に撫でる、大きくて優しい手。
繋がった掌から、律のあたたかい体温が直に伝わってくる。
(なんだろう……何か、ちょっとだけ安心する)
だけど自分とは違う少し高めの温度に、他人との接触をより強く認識させられてしまって……始めは安堵を感じていた温もりが、次第に何か得体の知れない羞恥をジワジワ運んできて、落ち着かない気分になってきた。
「な、なぁ……っ、別に流れ星はもういいから!それに迷子って、こ、子どもじゃないんだし―――」
―――ひとりで大丈夫だから、手、離せよ……っ
あいている右手で目に付いた洋服の裾をグイグイ引っ張って解放を求めた。律は足を止めて、ゆっくり背を屈めると、オレの目をじっと覗き込みながら、
「子どもだなんて思ってない。でも目を離したら、どこかに連れて行かれそうだから。……心配なんだよ」
スッと笑みを潜めて真顔でそんな事を言った。
声のトーンは穏やかで優しいのに、視線はどこか熱を帯びているようで、目が逸らせない。
「なに、それ……」
多分いつものオレだったら、こんな時は決まって『バッカじゃねえの!』とか『誰が連れて行かれるか、アホ!』とか、罵り交じりの軽口を叩いて簡単にスルーしていたのだと思う。
だけど最近のオレは、こういう律の何気ない一言にいちいち心臓がドキドキさせられて、勝手に顔が赤くなってしまったりする。
今だってそうだ。こんな道の往来で周りは行きかう人だらけの中、男同士で見つめ合いながら、らぶらぶバカップルよろしく手なんか繋いだりして。本当、何やってるんだかな、って思うけど。……おもうんだけど。
このおかしな状況が凄く恥ずかしいと思う反面、妙に居心地が良くなってしまって。
優しいだけじゃない、強さのある真摯な眼差しで見つめられると、胸が締め付けられるような切ない息苦しさを感じるのに、それが全然、嫌じゃなくて。
そんな自分が、自分自身でもわけわかんなくて、焦ったり戸惑ったり……
―――馬鹿みたいに、ドキドキしている。
「律ってそんなに心配性だったっけ……」
オレは赤くなった顔をなるべく見られないように俯くと、問いかけというよりもひとり言のつもりでポツリと漏らした。
「そうだよ。知らなかった?」
その小さな呟きを逃さずしっかり拾った律は、すごく優しい瞳でオレを真っ直ぐに見つめてくる。
(……ああやばい。その目はやめろって、心臓に悪いから)
「……全然、知らない。でも章太達が、律は過保護だって言ってた……前はよくわかんなかったけど、今はそれ、わかる気がする」
多分律はオレにすごく……甘いんだと思う。
それは勿論オレがいとこだからとか、そういうのもあるんだろう。でもそれを差し引いても、余裕で有り余るぐらいに甘やかされているんじゃないかって。
意地悪な事もたまに言ったりするけど、困った時はいつも助けてくれるし。なんだかんだいっても、結局優しいんだ。
なにかすごく、大切にされている感じがする。
……まるで自分だけが律の『特別』なんじゃないかって、時折錯覚してしまうくらいに。
律にとって、オレの存在って何?
律はどうして、こんなにオレに色々してくれるんだ?
単純でシンプルな疑問だった。でもオレにとってそれは、不明瞭な答えの出ない難題に違いなくて。
わからないのなら唯一正解を知っている本人に直接聞いて確かめればいいのに、何故かそれがどうしても出来なくて、一人悶々と思いを巡らせる。
やっぱりオレが身内だから、仕方なくただ面倒みてくれてるだけなのかな……それとも……こいつの行動には、もっと別の意味があるんだろうか。
そこまで考えて―――じゃあその「別の意味」って何だ?と新たな疑問が浮上してくる。
わからない事だらけのこの難問は、考えれば考えるほど深みに嵌まっていくような気がして頭を抱えたくなってしまう。そもそも何でオレは今更こんな事を改めて気にしているんだろう。と、それすらわからなくなってくる始末だ。
……これは一体、何なのか。この感情はどこから起因するものなのか。まだ言葉では上手く言い表せない、形の無い、不確かな気持ちを早く知りたいと思う。
でもそれと同時に、この感情にはっきりと名をつける事を心の何処かで恐れている自分がいた。
「過保護、ね……まあ、否定はできないな。でも、誰にでもそうなわけじゃないけど。……あ」
ふと律が前方を見て僅かに目を見張った。
視線の先を目で追うと、紺色の浴衣を着たすごく綺麗な女の人が、オレ達に向かってにっこり笑いながら、手を振っている。
(―――誰?姉ちゃんの友達……とかじゃないよな……)
少し距離がある所にいるその人は、見た目年齢はオレ達よりも少し上の二十歳前後くらいで、女子大生とかOLっぽい感じ。遠目でもはっきりと美人なのがわかる。
誰だろう……オレの知り合いじゃない事は確かだ。
ということは―――
「なあ。あそこで今、手ぇ振ってる浴衣の人……」
お前、知ってる?そう聞いてみると、律は彼女に向かって笑顔で手を振り返していた。
(……ああ、やっぱりそうかよ)
「あー……うん。ちょっと、知り合いのひと」
おい……今、返事するのに妙な間があったぞ。何か隠してないか、こいつ……!
「知り合いって……あの人年上だろ?どんな時のどういった、お知り合いだよ」
ムッとしてオレは更に追求する。
眉間に皺が盛大に寄って、口が勝手にへの字になっていくのが自分でもわかるけど、止められない。
「中学の時に色々お世話になったひと、かな」
律は未だ嘘くさい笑顔で浴衣美人の方を見ながら、あまり返事になっていないような回答をした。
(……ていうか、いつまでそっち見てんだよ、ばかりつ!)
さっきまでのふわふわした気分が嘘のようにすっかり消え去ってオレの機嫌は一気に急降下した。オブラートで包んだように曖昧で婉曲的な言い方なのが、かえって癇に障る。
核心的な言葉は無くても、何となくこういうのは雰囲気でわかってしまうものだ。
(……色々お世話になったひとって。それって要するに)
―――元カノってことだろ!
「ああソウデスか。ナルホドね。……お前中学ん時から、あーいうとしうえのびじんなおねーさまとお付き合いがあったわけね」
苛々して声まで低くなってきた。うわどうしよ。
(マジで、超ムカつくんですけど……!)
高校に入る前は学校も別々だったし今みたいにいつも一緒にいたわけじゃないから、律がどんな中学生活を過ごして、どんな風に青春を謳歌していたかなんて、オレには知る由も無い。だから別にいいけど、さ。さぞかし楽しい中学校時代だったんでしょうよ、ケッ。こいつがどんな女と付き合ってようが、ケッ……ケッ!
全っ然、これっぽっちもかんけーございませんし!
……ただのいとこのオレには。
「さすがおうじさまだけあっておあいてもすばらしくびじんさんですこと。……それにりつせんせーがとしうえずきだなんてわたくしいままでまったくしりませんでした」
苛々する気持ちをぶつけるように、感情を込めない一本調子の棒読みで、精一杯の嫌味を言ってやる。
「……確かに美人は好きだけど。別に、年上が特別好きってわけじゃない。それより……悠?」
不貞腐れたオレは律の顔を見ないようにわざと横を向いていたのに、ふいに名前を呼ばれて反射的に振り向いてしまった。目が合うとすかさず握っていた手を強く引き寄せられて、身体ごと正面に移動させられる。
「さっきから何、怒ってんの……あ、もしかしてお前―――あの子に妬いてたりする?」
まるで内緒話をするみたいに声を潜めて、律はオレの耳元でクスクス笑いながらそんな事を言ってきた。
(ハア?なっ、えっ、何!何だそれは―――っ!)
「べ、別に、妬いてねぇよ……っ!」
何でオレが、どうしてこいつの昔の彼女に嫉妬する必要があるわけ?意味わかんねぇしほんと!何勝手に勘違いしてんだよ!バッカじゃねえの……っ!
―――絶対に違うから、断じてそんなんじゃない!
動揺しまくったオレは全力で否定したけれど、はいはい、わかったわかった。とまるで駄々をこねる小さな子を宥めるように、頭を帽子越しにポンポンと撫でられながら軽くいなされてしまった。真っ赤になりながら地団太を踏んで、怒りオーラを余す所無く前面に出しきっているオレとは対称的に、律は何故か大変ご機嫌が宜しいらしかった。
ひとり涼しい顔で鼻歌でも歌いだしそうなくらいの御満悦を絵に描いたような、満面の笑顔だ。
(何なの、この歴然とした差は)
上から目線全開な余裕の微笑みが、オレさまの崇高な神経を逆なでしまくってくれる。憎たらしい事この上ない。
なのに、なまじ顔の造りが文句のつけようが無いくらい整っているものだから、ムカつきながらも思わずその甘い笑顔に見惚れてしまう。
まったく、美形なんてものはこういう時絶対にお得だと思う。普通を名乗る一般市民の皆様に比べて、圧倒的に有利だ。有益だ。役得だ。理不尽すぎる……ずるい。
顔なんて所詮、自分の努力とは関係無く親から与えられたものだ。そんなもので、今まで苦労もせずに散々いい思いをしてきただろう人間に、よりによってオレは。
ああクソ……やっぱりこいつ、顔だけはメチャクチャ格好いいよなぁ。マジで、おうじさまみたいだ……なんて思ってしまうなんて。心底どうかしている。本当に、最悪だ―――
「もう、笑ってないでさっさと歩け、ばかりつ!」
繋がれた手を力一杯握ると、今度はオレが律の腕を引っ張って歩き出した。
さっきからずっと心臓がドキドキバクバクして、胸が痛い。息も苦しい。身体中が熱くて仕方ない。
―――もしかしてオレ夏風邪でもひいたのかな。それともまさか、物凄い大きな病気だったりして……
(うわあああ!ど、どうしよう、たた大変だ!もしそうなら、一大事じゃないかー!だ、誰か助けて……!)
「……ああもう、ほんっとに、ちょっと……かわいすぎて、こまるんだけど」
天に救いを求めながら、歩くというよりも競歩をする勢いで無我夢中に前進していると、律が苦笑まじりに何かボソッと呟いた。
「……ぁあ?なに、よく聞こえないって。もっと大きい声で言えよ!」
周りはすごい人ゴミでガヤガヤと騒がしく、小さな声だと近くにいてもよく聞き取れない。
「……いろいろがまんするのがたいへんでこまるっていったんだよ。―――もうそろそろ限界かも、俺」
聞こえないって言ってるのに相変わらずボソボソとしゃべるから、前半はさっきと同様、何を言っているのかさっぱりわからなかった。
限界がどうとかって、最後にチラッと聞こえた気がするけど……何の話だ?
「何が限界だって?」
「…………」
しばらく待っても全然返事をしない律に焦れて後ろを振り返ってみた―――ら、目の前の視界が突然何かによって遮断される。
(―――え?)
「な、に……?」
さっきまで普通に見えていた大勢の人や、暗くなってきた空が今は何も見えない。律が繋いでいない方の手で、オレの目元を覆ってしまったからだ。
「ちょ……っ律、何してんだよ!?」
(暗くて前が全然見えないんだけど!いや前どころか、これじゃ何も見えないんですけど!)
暗転してしまった視界に驚いて大騒ぎしているオレに、律はさっきよりも更に耳の近くで、吐息を吹き込むようにして小さな声で囁いた。
「……頼む。ちょっとだけ、そのまま目、閉じてて」
「……っ」
熱い息と潜められた艶のある低音が耳朶をそっと撫でていく。その感触に寒くも無いのに背筋がゾクリとして、口から溜息のような吐息が零れた。
息を止めて固まっていると、唐突に繋いでいた手がするりと解かれる。温もりを失った掌に寂しさを感じていると、下の方からガサガサと音がした。
(……?何だろう。なにかしてる……?)
しかしすぐにその音は聞こえなくなり、次の瞬間、オレは再度訪れた更なる驚愕に大きく目を見開いた(目の前には相変わらず律の手があって何も見えなかったけれど)。
それは瞬き一回するくらいの僅かな時間。レーテン、何秒の世界。……ほんとうに、一瞬だけ。
―――何かがそっと、優しく唇に触れた。
「…………!」
その瞬間、今まで煩いほど耳に入ってきていた人々のざわめきだとか、少し離れた所から時折聞こえるセミの鳴き声だとか、そういった音の一切が、ふっと空気の中に溶けるようにして、消失した。
視覚も聴覚も失った、夢のような一瞬―――記憶に残ったのは、唇を掠めた不確かな、淡く薄い……でもまぎれもなく人の持つ温度だった。
それは風が通り過ぎるように、あっという間の出来事で。
(なんだ、いまの……)
呆然としていたオレは「目、まだ開けるなよ?」という声と共に目元を押さえていた律の指がゆっくり離れていくのを、感覚だけで感じていた。
そして今度は、さっきとは全然違う感触の小さくて硬い何かが、唇の上にそっと押し付けられていた。
「ん……」
正体のわからないその物体が口に中に押し込まれるようにして少しずつ入ってくる。
目に見えない異物の進入に本能的に歯を立てると、柔らかい皮膚の感触があって、律の指がオレの唇に触れているのがわかる。舌の上でコロコロところがっている謎の進入物は、丸い飴玉よりもずっと小さい。でこぼことした形状の硬い粒を恐る恐る噛んでみると、それはとても甘くて、懐かしい味がした。
「これって……もしかして、こんぺいとう?」
昔散々食べつくした覚えのある味に半ば確信を持って尋ねると、正解、と言う律の声が耳元でした。オレはようやく、閉じていた瞼をゆっくりと上げる。
律の手元を見ると、オレが目を瞑っている間に(多分ポケットから)取り出したらしい小さなビニール製の透明な袋があった。その中にはピンクや水色、オレンジや黄色といったカラフルな金平糖が入っている。
暫しの間それを無言で見つめながら、さっきのあれは、何だったんだろう……と、ぼんやりとした頭で考える。
最初に感じたあれ……指、じゃ無かったような気がするんだけど……もっと、あたたかくてやわらかい感触だった。
(あれは、もしかして―――)
いや、でもまさか。……そんなわけないよな。律がオレに、……する、なんて。あるわけ、ない。
チラリと頭を過ぎったその考えを打ち消すように、何でも無い顔をして律の掌にある袋を取り上げる。
「どうしたんだよ、これ」
「家にあったから持ってきたんだけど、渡すの忘れてた。さっき流れ星の話をした時に思い出したんだ。……お前、これ好きだったろ?」
―――『ながれぼしのこどもなんだ』って言って、いつも俺の家に来る時は大事そうに持ってたよな―――
律は昔を懐かしむように言って、袋の中から空の色をした金平糖をひとつ選ぶと、またオレの口の中に入れてくる。
「昔さ、お前がぐずった時とか機嫌が悪くなった時に、亜季さんがこれを食べさせるとすぐに大人しくなった」
ああ……そうだったな。小さかった頃のちょっと恥ずかしい思い出だ。
「……よく覚えてたな。そんな事」
オレ達がまだ、幼稚園くらいの時の話だぞ。オレだって、さっきまですっかり忘れていたっていうのに。
……それに律が星の子どもの話を覚えていたのも意外だったけど、流れ星の話をした時オレが金平糖の事を思い出していたのをまるで見透かすように、こんなにタイムリーに実物が出てきた事にかなり驚きだ。何か本当に、凄いタイミングっていうか……まるで魔法みたいだなって、馬鹿な事を考えちゃうじゃないか。
(……どうしよ。何でたかがこれくらいの事で、こんなに感動しちゃってるのかな、オレ……)
でもこういうのって、狙って出来るものじゃない。それこそ奇跡に近い偶然の確率だからこそ、言葉や理屈で語れない、目に見えない運命の力みたいなものを感じてしまうんだ。
「星の子どもっていう発想がお前らしくて、すごくかわいいなって思ったからな。……忘れられない」
律は最後の一言をまるで重大な契約を交わすように、もしくは永久不変の理(ことわり)を説くようにして、意味深長な笑みを浮かべながら告げた。
「な……っに、いっ、て……」
(―――か、かわいいって何だよ、馬鹿にしてんのか!)
そう言ってやりたいのに、律が怖いくらいに真剣な顔をしてオレを見つめてくるから、胸がギュッと締め付けられたみたいに苦しくなって、何も言えなくなる。
逸らす事を決して許さない、強くて熱い眼差しに……心を真っ直ぐに射抜かれる―――
「本当だよ。ほんとうに、いちいちお前は、何でもかわいい。……今も、昔も」
スッと瞳を細めながら、少し掠れた甘ったるくて低い声で、律はそんな事を平然と言う。
(なんだよそれ、なにがいいたいんだ、おまえ。かわいい、かわいいって、なんどもいうなばか……!)
反抗する言葉が喉元まで出掛かっているのに、まるで魔法にかかってしまったように口が一ミリも動いてくれない。喉がカラカラに渇いてしまって、何度も唾を飲み込んだけれどちっとも潤わなかった。
……オレの胸の中で何か、大きく激しく、ざわめいているものがある。未だ名のつかない、不可思議なこの感情。
普段だったら激怒するような事を立て続けに言われているというのに、全然腹が立たないのは何故なんだ。
それどころか、ドキドキと高鳴っている心臓が全身を甘く震わせて、切ない溜息が次々と口から零れ落ちていく。
(……ああオレ、どうしたんだろう)
すごく、へんだ。すごく、おかしい。
蕩ける様な甘さを湛えた瞳でオレの目を一点に見据えながら魅惑的で少し酷薄に見える笑みを口元に乗せて、律は三つ目の金平糖を口に運んでくる。唇をそっと撫でるようにして押し込まれた、黄色い星の欠片を飲み込んだオレは。
その時ついに―――それを知った。
「あ……」
懐かしい味の小さな砂糖菓子と共に喉元を通り過ぎて行ったのは、砂糖よりも遥かに甘い、息苦しいほどの、切なくて熱い痛み。
(―――っ!)
それは本当に突然、前触れも無く真っ直ぐオレの胸の中へ、金平糖と一緒にストンと落っこちて来た。
例えば今日、本当なら今一緒にいるはずだったあいつらが、待ち合わせに遅れて来なかったとしたら。
こんな風に律と二人きりで、恋人同士のように手を繋いで、その手の大きさやあたたかさに改めて安堵したり、原因不明の羞恥に襲われながら歩く事はなかっただろう。
もしも今日、祭りの人ゴミの中で律が昔付き合っていたというあの綺麗な人に出会わなければ。
オレはこんな気持ちにならなかったかもしれない。
律の昔の彼女に、過去の恋に、わけもなくムカムカして、苛々しまくって、子どもみたいに拗ねてしまうなんてことも。
―――そして今日、オレが何となく空を見上げて、流れ星を見つけてみようなんて思わなかったら。
そこで『星の子ども』の事を、あんな昔の頃の恥ずかしい、でもちょっとだけ大切にしていた、他愛も無い小さな思い出を懐かしむ事がなかったなら。
流れ星を見つける奇跡のようなタイミングに勝るとも劣らない確率で、まるで魔法が使えるおうじさまみたいに、律が金平糖なんてものをオレに渡さなければ。
もしかしたらずっと気づかないで、わからないままだったかもしれないのに―――
そんな風に小さな偶然の出来事がいくつも重なって、今までずっと胸の中でモヤモヤしていたものが。
答えを探し続けていて、でもそれを見つけ出すのが何故か怖くて、心のどこかで目を逸らして本気でわかろうとしていなかった、たったひとつの答えが。
まるで霧がかかったように薄ぼやけていたものが、突然クリアになった途端―――今まで見えなかった視界が開けて、その意味を知る。
それはとても強く、熱い激しさ秘めた、甘くて苦しい、目に映る景色さえもが昨日と色を変えてしまうもの。
こんなにも胸を揺るがす、切ない想い。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう―――!)
そうだったんだと、自分の中ではっきりと認識した瞬間、その途方も無い想定外の事実に愕然としたオレは、頭の中が真っ白になって前後不覚に陥った。
カア―っと一気に身体中の温度が沸点まで行ってしまったみたいにどんどん熱くなってくる。
(……嘘、だろ?本当に?マジで?……なんで?どうして?いつから……!)
何度自問自答を繰り返してみても、一度出てしまった答えはもう覆らない。とてつもなく優秀な遺伝子を携えている筈のオレの脳内が、近年稀にみるほどの大パニックを起こしていた。
「悠?どうした……?」
急に真っ赤になって泣きそうな顔をしているオレに、律が「なんか顔赤くないか。どっか具合でも、悪い?」と言って頬にそっと手を当ててくる。
「ふぇ……っ、あ!な、なん、なんでも、ない……っ」
頬を優しく擦る律の大きな手を感じて、ますますオレの体温は上昇する。この程度の接触はオレ達にとって何でもない、よくある日常茶飯事の一つだったはずだ。
なのにたったこれだけの事が、今のオレにはとんでもなく多大な羞恥を伴うものになってしまった。
心臓がドキドキして、凄く恥ずかしくて、やたら照れくさくて……だけどそれ以上に、触れられる事がとても嬉しくて。
胸がジワリと熱くなって、悲しくも無いのに何故か涙が出そうになる。パニックどころか、これはもう一種の病気だ。しかも凄い重症。完全に末期―――きっともう、手遅れだ。
手の施しようが無い大きな熱病が、オレの心と身体を熱く蝕んでいく。
「ほんと、全然大丈夫、だから……」
「……そ?じゃあ、そろそろ橋まで行くか?」
「う、うん……」
頬をサラリと一撫していった律は、オレの金平糖を持っていない方の掌を再び握り締めると、目的地に向かって歩き出した。
律がしてきたのは相変わらず恋人繋ぎで、その行為自体の恥ずかしさはさっきと変わらずにあった。
……変わったのは、ただ恥ずかしいだけじゃなく、それを自らも望んでいて、喜んでいる事だ。自分からこの手を離そうとするなんて事は、もう二度と出来そうにない。
少しだけ前を歩く律の、大きくて広い背中を見ているだけで胸がいっぱいになってしまって、思わず後ろから抱きつきたくなった。
どうしようもなく切ない気持ちが、きゅうっ……と、どこからともなく込み上げてくる。
繋がれた手のあたたかさが、とても心地よかった。
……手だけじゃなくて、もっと沢山、律の体温を感じたい。
―――律に触れたい―――
突然嵐のように沸き起こった衝動に、繋いだ手につい力を込めてしまうと、少し驚いたような顔をして律がオレを見た。
「……なに?」
「あ……っ、えっ、と……」
オレは必死で、どうしよう、なにか言わなくちゃ、と思考を巡らせる。
「あ、あの、こんぺいとう。ありがと……」
「……ああ、どういたしまして。―――それでご機嫌は直りましたか、お姫様?」
さっきからずっと無言で大人しく後をついてきたオレに、わざといつもの禁句を持ち出して軽い調子で言った律は、優しくて滅茶苦茶に格好良い、今日一番の笑顔を見せた。
(うわ、やばい。もう、だめだ。オレ)
今まで生きてきた中で多分、オレが言われて一番ムカつくはずの禁断の単語さえも、その甘い微笑みを見たら怒りなんて一瞬でどこかに吹き飛んで、どうでもよくなってしまった。
些細な笑顔ひとつで、こんなにも切ない気持ちになって、泣きそうになる。
こんな気持ちを、果たして人は何と呼ぶのか―――
「……まだまだぜんっぜん!あと焼きそばとお好み焼きと、カキ氷にクレープ……それにやっぱり、りんご飴もないと!一ミクロンだって直んないから、機嫌!」
溢れそうになる想いをグッと飲み込んで、出来るだけ普通を装って明るく言うと律は、
「じゃあ遅れたぺナルティとして、一彦に全部買わせるか」
悪巧みをする子どもみたいに無邪気な顔をして、楽しそうに提案してきた。
「うん、それいいな。賛成!今言ったやつ全部買ってから、待ち合わせ場所に来いって一彦に指令メール出しとけよ、律……あ、でも」
「でも?なに?」
「とりあえずりんご飴だけはすぐに食べたいから、それだけ外しといて」
「すぐ食べたいんだ?だったら橋に行く前に、先にそっちへに寄っていこう」
かくしてオレ達は、りんご飴の屋台が出ている橋の袂に向かって、人の波の一端に紛れていった。
時刻はもうじき花火開始予定時間の十九時半になる。
来た時はまだ暑かったのに、暗くなってから大分暑さが和らいできた。昼間と変わらず今だ元気に鳴いているセミの声を遠くに聞きながら、太陽が沈んだ天の頂をゆっくりと仰ぐ。
手を繋ぎながら見上げた夜空で、流れ星はやっぱり見つからなかったけれど、オレの右手には沢山の綺麗な色をした、金平糖があった。
一粒一粒どれもがかけがえのない、とても大切で愛しい、小さな流れ星の子どもたち。
口にすればとびきり甘くて、言葉に出来ない切なさが胸をいっぱいに熱くする―――
それは正真正銘、疑いようもない―――『恋』の味。
【ACT10】END