【ACT6】客観的見解と主観的思想の相違

……多少の個人差はあるものの、殆どの人間は成人を過ぎると、一日の睡眠時間が五時間もあれば日常の生活に支障はないと聞いた事があるが、若干十五歳の高校一年生の場合は一体何時間必要なんだろうか。

 


 朝ののっけから何故こんな事を考えているのかというと、それは昨日、オレの睡眠時間が圧倒的に足りなかったからだ。

オレは通常、最低八時間は寝ないとどうにも気分がすっきりしない。しかも酷い低血圧というわけでもないのに、異様に寝起きが悪いらしく、目が覚めてから約十分間は、意識はあるのになぜか記憶がほとんど無い(酒も飲んでないのに、ナチュラルに泥酔状態だ)。
 そんなオレが昨夜は見事にほぼ貫徹だったため、よろよろのふらふら、いくら頑張っても両の瞼が仲良しさんになってしまうので大変だ。

 少しでも眠気を覚まそうと、カフェインたっぷりのコーヒーを飲んでみたり、カーテンを開けて眩しい朝の光を目一杯身体に浴びせてみたけど、一向に目が覚めてくれない。
 新鮮な外の空気を吸うため窓を開けると、耳に入り込んでくる「せ」の字(最早たった二文字のフルネームを口にする事さえ、忌々しい)の声がいつもより遠く聞こえる。
 こりゃ本格的にやばいな。立っているだけで意識が夢の中にお出かけしてしまいそうだ……


 ―――ピンポーン。

毎朝七時四十五分きっかりに鳴る玄関のベルの音が、半ば夢うつつだったオレの意識を無常にも呼び戻した。

(……あ〜。ガッコ、行かなくちゃ……)
 長い冬眠から目覚めたばかりの熊のように、ゆったりした歩みで玄関まで行くと、相手を確かめる事なく鍵を開けた。
「……これはまた、酷いお顔ですね」
「……それはまた、どーもありがとう」
 辛うじて意識を保っていたオレは、本日も寸分違わぬ時間に迎えに来た我が裏切り者のいとこ殿の率直で辛辣な感想に、およそ相応しくない御礼の言葉を返した。
「褒めてないんだけど、全然。おい、ちゃんと生きてるか?」
 ……返事がない。ただの屍のようだ……ってコラ。ゲームやってんじゃないんだから。
「すっげー眠い……今日休みたい」
「駄目。今日は放課後社会のレポートやらなきゃだろ、お前」
「それなら昨日全部終わった……」
 だから今日はこのまま寝かせてくれ……
「ああ。それで、このくまなのか……」
 こいつが言っているくまは勿論、冬眠していた動物の『熊』じゃなくて、目の下に出来る痣の『隈』の事だ。
「えー……やっぱ目立つ、これ?」
「かなり。はっきりくっきりついてるぞ、これは」
 律はオレの両目の下にはりついているくまさんを、親指でツーッとなぞりながら言った。
「何も無理に徹夜までして一日で終わらせる事ないのに」

(……オレが徹夜でやらざるをえない状況に追い込まれたのは、お前が姉ちゃんに余計な事をべらべらと吹き込んだからだっつうの……)
 いつもならここで力一杯反撃している所なんだけど、今はそれよりもとにかく、眠くて。ねむくて。ねむく、て、ねむ、く、て―――……はっ。やばい……今意識が一瞬飛びそうになったぞ。ああもうねむ……
「チャリ乗りながら寝ると落っこちるから、ちゃんと起きてろよ、悠。ほらしっかり鞄持って。……ああちょっと待て、ネクタイ曲がってる」
 何を言われてもただボーッと突っ立っている、木偶の坊なオレのネクタイを手早く外すと、器用な手付きで歪なそれを綺麗に結び直した。

中学の時は学ランだったから、ネクタイなんて高校に入るまで殆ど縁の無かったものだ。それにしたって入学当初からほぼ毎日やっているのに、オレはネクタイを自分で完璧に結べたことがまだ一度も無い。
 いつも長さが微妙だったり、曲がっちゃったりするから、最終的にいつも必ず律の手直しが入る。何でこんなに上手く出来ないのか本当に謎だ……手先の細かい事(例えば料理)なんかは得意中の得意なのに。


「……朝から中睦まじい新婚カップルみたいね、あんた達」
 玄関でウダウダといつものネクタイ直しをやって貰っていると、背後から声がした。振り返ると、昨日の徹夜の原因を作ってくれた二人目の凶悪犯……ではなく、昨日珍しく早い時間に帰ってきた姉ちゃんが腕を組んでオレ達を見ていた。
「はぁ?……何でこれが新婚なんだよ」
 オレまだ独身だし、しかも未成年なんですけど?……って、それじゃ論点が違うか。
「律も毎日大変ねー、こんなネクタイ一つまともに結べない奥さんじゃ」
「そう。色々苦労が耐えないんだ……いろいろ」
 やけに『いろいろ』の部分を強調して言った律は「仕方ありません」といった感じで肩を竦めてみせた。
「おい、苦労ってなんだ。色々ってなにが……ちょっと待て、その前になんでオレが奥さんなんだ、えぇっ!?」
 半分寝ぼけながらでもオレの優秀な耳は、いちいち引っ掛かる単語を律儀に拾って脳に送ってくれる。

普通、ネクタイ結んで貰うのは旦那さんの方だろ!なのに何でオレが奥さんなんだよ、逆だろ!
 ……ん?何かこれもちょっと論点がずれてんな。
「実都希姉、今からもう出勤?」
「そ、昨日仕事残してきちゃったからね。早出なの」
(―――ふたりしてシカトかよっ!おい、お前ら!)
「そう、大変だね。頑張って」
「ありがと。律も悠の世話宜しくね。悠、旦那さまの言う事しっかり聞くのよ〜。じゃ、行って来まーす。今日は遅くなるからね」
 あ、おい、ちょっと待て……とオレが言う暇もなくヒールが軽く十センチはありそうなイカレた靴をさっさと履いて、姉ちゃんは風のようにあっという間に行ってしまった。
「……ったく、誰が奥さんだっつうの。あ〜、めむい……」
「それをいうならねむい、だろ?お前呂律まわってないぞ。……そういえば今日、亜季さんは?」
「母さん……?朝早くから超気合入れて向こうの家掃除しに行ってる。今日もまたお前の好きなモン作って、待ってるってさ、ふあぁ……」
 恥ずかしげも無くノドチンコ全開で大きく欠伸をしてのたのたと靴を履いて外に出る。

今日も晴天に恵まれた空には、お日様が燦々と輝いていた。「せ」の字の鳴き声も朝から絶好調だ。うんざりする。
 ショボショボしている目を擦りながら視線を空から地上に戻すと、ふと目に入った律の左側の耳元が一瞬、太陽の光に反射してキラリと光った。
 あれ、と思ってお互いの距離が二十センチ無いくらいまで近づくと、左耳に一つだけ、余計な装飾の付いていない透明な石の付いた小さなピアスをしているのがわかる。
(そういえばこいつ、いつからピアスしてたんだろ……?気づいたらいつのまにか、穴あけてたんだよなぁ)
 一応うちの学校では風紀の関係上、髪を染めたり、ピアスをあけたり、カラコンを入れたり、タトゥーをいれたりする事は校則で禁止されている。ま、当たり前だけど。

その中で、きっちり規則を守る几帳面なタイプの律が唯一校則違反で引っ掛かるのが、このピアスだ。
 うちの姉ちゃんもしてるけど、よくこんなの出来るなあと感心してしまう。……オレ、絶対無理。

だって、身体の中にいくら小さいとはいえ穴が開くんだぞ。うわあ、想像しただけで、痛い。

あとはコンタクトも駄目だ。いくらミリ単位の薄さでも目の中に得体の知れない物体が入るのかと思うと、何も入れてないのに眼球が勝手に拒否反応を起こしてシバシバしてくる。
 心と身体って、自分が思う以上に密接に繋がっているものなんだなぁ……と、こんな所で実感してみたりする。
 律は結構な近視だから、普段は度の入ったコンタクトを使っているんだけど……涼しい顔してよくあんなもの入れられるよ。オレなんか怖くて自分で目薬さえ入れられないってのに……(それもまた情け無い話だけれど)

タトゥーなんかは問題外だな、痛すぎる。きっといれてる奴は皆ドMに違いない。

一番ポピュラーな、髪を染めるっていうのも、なぁ。

オレ元々、髪の色素がかなり薄くて何にもしなくても茶色だし……それでもたまにはイメージを変えてみたくて「何か違う色にしてみよっかな」と試しに言ってみたら、
『内申悪くなるから、やめとけ』
『えぇーっ!悠ちゃんのサラサラストレートヘアがいたみばくはつのえだげだらけんなったらどーすんのお!悲しいよ!僕、断固反対!』
と半ば強引に説得されて、結局断念してしまった(ちなみにこれ、前者が律で後者が章太の意見です)。
 ……ったく、かくいう自分達はどうだっていうの。

律はピアスしてるし、章太なんかもっと色々やっている。枝毛どころの話じゃない。触ったら痛そうなくらい、いつもトゲトゲに立てている髪の毛は、茶髪を通り越してプラチナブロンドだし、ピアスの穴も左右共に四個、両耳で計八個もあけていて、それぞれの穴に微妙に色形の違うシルバーのカフス達が所狭しとぶら下がっている。あんなに沢山つけてて、耳重たくないんかな……よし、今度聞いてみよう。

 

「……な。珍しいじゃん、律がピアスしてるのって」

横を歩きながら、律の左耳のピアスを指先でツンツンと、突っついてやる。

この透明な石って、何だろ。こいつ結構なブランド嗜好だから、もしかすると、ダイヤだったりして。

「これか?たまにつけてないと勝手に塞がっちゃうんだよ、ピアスホール」

律はピアスを弄る指がくすぐったかったのか、オレの手首を掴んで、ピアスからさり気なく遠ざけた。

「塞がるとまずいわけ?」

「もう一回あけるの面倒だろ。それに何度も痛い思いしたくないし」

「えー、やっぱ痛いんだ、それ」

「あけた後に、ちょっとだけ、な。大した事ないけど」

「ふーん……じゃあオレも一回あけてみよっかなー」

極度の痛がりで怖がりな自分には所詮実行不可能な事を、軽いジョークのつもりでちょっと言ってみると、以前の時と同じく速攻で駄目出しされてしまった。

「親から貰った大事な身体に勝手に傷をつけるな、馬鹿者。亜季さんが泣くぞ」

「えー……」
 じゃあ、お前は?亜耶さんなら泣かせてもいいのか?何でお前は良くて、オレは駄目なんだ。律の横暴者。不公平反対!

口を尖がらせて抗議を申し立てようとしたら、ちょうどマンションの駐輪場に着いてしまった。

ここであまり律と不仲になるような事をすると、チャリに乗せてもらえなくなるかもしれない。喉元まで出掛かっていた苦情を再び喉の奥に引っ込めると、オレは渡された律の鞄を右手に持って定位置の荷台に腰を下ろした。律の腰に手を回した途端、再び強烈な眠気に襲われる。我慢して何とか瞼を開けてはいるが、今にも夢の国の住人になりそうだ。

(んー……やっぱり、眠いな)

「しっかりつかまって、学校着くまで寝るなよ」
 背後で大きな欠伸をかましたオレに律はしっかり釘を刺すと、自転車を緩やかに発進させた―――

 

 

*****

 


 ウトウトしながらも、チャリから落下する事無く無事学校に辿り着いた。道行く生徒達から労わりの声を掛けられつつ、それを適当に流して教室に入る。

「おっはあ〜っ!今日も良いお天気でご機嫌いっかがぁ〜?……って、あれっ。ちょっと悠ちゃん、何、それ!」

朝っぱらからテンション高めな挨拶をしてきた章太は、オレの顔を見るなり、正面からガッと両肩を掴んで、大袈裟に嘆いた。
「悠ちゃんの超絶かわいいお顔に、こんな無残な痕がああ!せっかくの綺麗なお肌がああ!僕、ショック!せんせい、悠ちゃん一体どうしたの?!」

(……かわいいって言うな。いちいち律に聞くな。半分意識が飛んでいる身体を揺らすな!)
「昨日寝ないで例のレポート全部終わらせたんだよ。だからこいつ、今日は一日中セミの抜け殻みたいだぞ」
 眠気で意識が朦朧としているオレの代わりに、律が本日のオレの空っぽな精神状態を、よりによってオレが世界で一番嫌いなものに例えやがった。
 おい、もっと別のやつで例えろよ。抜け殻っていったって、他にも色々あるだろう。ほら、蛇とかカブト虫とかさ。何もセミじゃなくても……って、問題はそこじゃないか。

……やっぱり駄目だ。今日はオレの中でとにかく論点がずれまくっている。あまりの眠気にツッコム所、怒る所が悉く外れていく。

(……眠い……)

「すごい悠ちゃん、頑張ったじゃーん。いつも期限ぎりぎりになるまで中々やらないのにねー」

「昨日大阪から悠のお母さんが来たからな。多分それでだろ」

「あっ、そーなんだぁ。確か悠ちゃんのお母さんって勉強に厳しいんだったっけ?……あれ。ちょっと悠ちゃん、おーい、ちゃんと起きてるぅ?今日一時間目から体育だけど、その調子で大丈夫?」

「んん〜……うん……」

(そうだっけ……よりによって体育かよ、きっついなぁ)

ホームルームが始まるまでの僅かな時間に、少しだけでも寝ておこうと机に突っ伏していると、頭上にポン、と手が置かれた。瞳を閉じていてもそれが誰の手なのかすぐにわかる。

オレの軟らかくて癖のない髪を、律は慣れた手つきで優しく梳きながら何度も撫でてくる。ちょっとだけ、うたた寝を満喫する飼い猫になった気分だ。

(あ〜……これ凄く気持ちいーな……)

「……何だか僕、今、すっごくラブラブ〜な新婚家庭の日常風景を垣間見て、羨ましいようないた堪れないような、複雑な気持ちを目一杯持て余している、覗き見大好きのベテラン家政婦!……みたいな気分になっちゃったなぁ〜」

「ふーん。それで?」

章太と律がオレの頭上でコソコソ会話をし始めたが、貴重な睡眠時間を削るのは勿体無いので、無言で顔を伏せたまま瞳を閉じていた。

「何ていうかこう、結婚したばっかりでさ、慣れない家事でお疲れ気味の、美人で年若い新妻がいるとするじゃない?」
「…………」
(…………)
「でさ、その奥さんのことが可愛くて仕方ないって感じの、ちょっと年上で仕事が出来るイケメンの旦那さんが仕事から帰って来てさぁ、台所で疲れて寝ちゃってた奥さんを見て、もう仕方ないな〜こいつっていう風に、奥さんの頭なでなでしてあげてんの。で、それをドアの隙間から見ていた家政婦のあきこさんは……」
「……おい。それでお前は一体何が言いたいんだ……?」 

顔は上げずにそのままの姿勢で、つい我慢出来なくなったオレは章太に向かって疑問を投げかけた。
「え、あれっ?悠ちゃん、寝てたんじゃなかったの?」
(お前が頭上でごちゃごちゃうっさいから、寝たくても気が散って寝れないんだよ!)

「オレの事は気にしなくていいから。それで、何だって?」

何となく予想出来るけど、あえてここで聞いてみる。今度こそ論点ずらさず、正しくツッコンでやろうと思って。

「え〜いやぁ、だからさ、さっきの君達二人を見ていたら、なんだかねぇ、その……あきこさんの『あら〜!いやまぁ、若いっていいわねぇ。私もあと十年、いえ五年若ければねぇ……』っていう気分に思わず、ね……?えへっ!」
 なぁにが、えへっ!だ、まったく。何でお前があきこさんの心情にシンクロする必要があるんだ、意味わからん。

そんなイミフな理由で、誤魔化されないんだからな!
「で、つまりオレらがその新婚バカップルに見えるって言いたいわけ?え?あきこさんよ」
「え〜まぁ〜、つまりはそういう事になるんだけどぉ……」
 あきこさんもとい章太さんに、オレは伏せていた顔を上げて思いっきり凄んでやった。今日は目の下にくまさんのオプション付きだから、オレの睨みもより迫力があるに違いない。
「わぁーっ!悠ちゃん、そんな怖い顔しちゃ、嫌っ!」

「うっさい、家政婦のくせに指図すんな!」

大体、あきこさんって、なんだっ。覗き大好きのベテラン家政婦ってそりゃ、家政婦は○た!(某人気ドラマシリーズのおばちゃん主人公)だろうが!

「……くすん。せんせい、悠ちゃんが怖いー」
 章太は嘘バレバレの泣き真似を披露しながら、さっきの話の中でもいい配役(仕事が出来る二枚目の旦那、だったか?)だった律に助けを求めると、律は極めて冷静に、このお話のオチをつけてくれた。
「一つ疑問なんだけど。何で家政婦さんがいるのに、奥さんが家事やらなきゃいけないわけ?」
「…………」
「…………」
 どうやら、設定そのものにツッコミ所があったらしい。

……気づけよ、オレ……

気づけ、あきこさん……

 

―――キーンコーン、カーンコーン。

しらーっとした空気が数秒流れた所で本日のホームルームの開始を告げるチャイムと共に、ガラガラとドアを開けて、今日もやる気がなさそうな雰囲気をそこはかとなく醸し出した担任が入室してきた。
(―――げ。しまった)

章太のバカ話のせいで、うっかり貴重な睡眠時間を逃してしまった……うぅ〜ねっみいぃぃ。

 

一時間目体育なのに……恨むぞ、あきこ!

 

 

【ACT6】END

                       2014/10/27 up