【ACT3】ななの月、恐怖の大魔王現る

青く澄み渡る初夏の大空に、七年もの月日を経て長いお休みから目覚めたセミ達の鳴き声が、幾重にも重なって大きく響き渡る。
 彼らは皆、この時期を待っていましたと言わんばかりに、その羽を力一杯擦り合わせて、自分達の存在を五月蝿いほど主張していた。

 


 ―――突然だけど、オレはセミと呼ばれる生物が大嫌いだ。
 実際どの程度嫌いなのかというと、それはそれは、もう。
 多分、殆どの人間が苦手としているであろう、ゴキブリや毛虫、蜘蛛なんか問題にならないほど(いや、勿論こいつらも普通に大っ嫌いだけど)この世の中に存在する、ありとあらゆる生き物全ての中で、嫌いなものBESTの王座に輝くセミさん達。
 夏の風物詩だか何だか知らないが、こんな恐ろしい生き物が夏の間だけとはいえ、何故この世の中にさも当たり前のように存在するのか、自分的に理不尽で仕方が無い。
 きっとオレの前世はセミが天敵だったに違いない。
 アイツの姿を一目見るだけで、オゾマシサに思わず鳥肌が立ってしまう。ひえぇ……クーラーなんかよりよっぽど早くオレの体感温度を一気に下げてくださる。
 な、何でお前の体はそんな無駄にでかいんだ。しかも、声までやたら大きいし。

どうしてその辺の道端で、白い腹を見せつけるようにして、堂々ところがっているんだ。
 死んでるのかと思って安心して近づいたら、いきなりジジジジ鳴きながらバタバタとこっちに向かって飛んでくるし。あれ、マジで心臓が止まりそうになるくらいびっくりする。セミの分際で、死んだフリすんな。ちゃんと死んでくれ!
 ほんとうに、声を聞くだけでも嫌。触るのなんて、もっての他、絶対ありえないから!

―――しかしそのありえない筈の事態が、まさに今、緑溢れる木々の中。

西園寺高校裏庭駐輪場にて、勃発イタシマシタ。


「うわあああああああ!」
 この世の終わり、断末魔の如く、年齢制限有りの血みどろぐちゃぐちゃ、グロテスクなホラー映画を見た時ですらこれほどまでに我を忘れて、叫び声を上げる事はないだろう。
「りっ、り、り、りり、り、りっ!」
 念のための言っておきますが、これ。
 チャリのベルの音ではなく、突然起きた恐怖の出来事に対する、ワタクシの助けを求める引きつった声であります。
「りつっ!こ、こ、これ……!これ、はやくとって!」
 瀕死の形相で手に抱えていた鞄を地面に放り投げたオレは、目の前の(下校時間だというのに、朝来た時と殆ど変わらずしっかり糊の利いた)シャツに手を伸ばして思いっきりしがみついた。 

途端、広い背中から漂った爽やかな柑橘系の香水が鼻腔を掠める。嗅ぎ慣れた心地よい香りに包まれて一瞬安堵の息を吐くが、背中の奇妙な感触ですぐさま我に返った。
「うわあっ!これっ、せ、せな、かの。せなかの、これ!」 

(は、早く!助けてくれーっ!)
「これ?……あぁ、コレ、ね」
 切羽詰ったオレの懇願に、憎たらしくらい悠長に答えた律は、自転車に跨った姿勢のまま、やっとこちらの状態を把握してくれたらしい。


 事の発端は、ごく平和な日常の放課後から始まった。
 駐輪場に着き、いつものようにチャリの運転席に律が座るのを待ってから、続いてオレも後ろの助手席に跨る。

右手に律のスクールバッグを持ち(オレはショルダータイプのものを使っている)左手を律の腰に回して、スタンバイOKの合図を送った―――その時。
 オレがこの世の中で最も嫌悪する、「せ」の字で始まるミンミンジージーやかましい恐怖の大魔王が、駐輪場の一角を覆う緑の葉が覆い茂った木の頂から颯爽と飛んで来て、オレの背中にぴたっと張り付きやがったのだ。
(ぎゃあああっ、く、くっついてる!感触が!気持ち悪いっ、怖いっ、助けて、死ぬ!)
「何でそんな嫌がるんだ。かわいいのに、セミ」
 は!?な、何だ、空耳か?何か今この物体を『かわいい』とか言う声が聞こえたんですけれど。

コイツのどこが。一体どの辺が。魅力を感じさせるのでしょうか、皆目見当がつかないです。律、お前気は確かか。暑さでその優秀なノーミソ全部やられちゃったんじゃないだろうな。しっかりしてくれ!
「とと、とにかく、嫌いなんだ。怖いんだ!仕方ないだろっ」
 それより一刻も早くこいつを背中から消し去ってくれ!
「そんなんだから『姫』って言われるんだ、お前は」
(ぎゃあっ、今、う、動いた!ひいい、もう限界!)
「ひ、ひめでも王女でも召使でも、この際何でもいーから、さっさとコレを何とかしろ、馬鹿!」
「……それが人様に物事を頼む時のお言葉ですか。ん?」
 律はオレの苦しい状況なんか何処吹く風で、相変わらず前を向いたまま一向に動く気配がない。
(くそ、もう、後で覚えてろよ!)
 そう心の中で毒づいたものの、今この状況ではこいつに助けてもらうしかない。あーもう!
「律……りっちゃん。りつせんせい……っ、りつサマ!お願いだから、早くコレをとってくれ!くださいませ!じゃないと、しぬ!今すぐしぬ―――!ぎゃ―――っっ」
 これ以上無いくらいありったけの力を両腕に込めて、律に抱きついた。

「あぁ、うるさい」とぼやきながら、大好物のユーカリの樹にしがみ付くコアラのようなオレをものともせず、あっさりと身体を百八十度反転させた律は、オレの背に腕を回して忌々しい生物を素手で掴んだ。
(―――ひえっ!今ジジッていった!ジジッて……! )
「こんなに嫌われて、かわいそうに」
 律が捕まえた「せ」の字を空に向かって飛ばしたんだろう。ジジ、という声と共にソレは緑の中に去り、やっと背中の嫌な感触が無くなった。
「セミは脱皮してから一週間しか生きられない、儚い生き物なんだ。それにゴキブリなんかと違って、害虫ってわけでもないし」
 いやいや。オレの精神状態にこれだけ多大な恐怖を齎してくれるこいつは、充分害虫に値する!オレはゴキちゃんよりもセミさんの方が断然恐ろしい。
「あんなでっかい図体して、全然、儚さなんか感じない」

(あーあ、もう……早く夏が終わんないかなぁ……)

オレは力の抜けた腕を律の背中から外して、自転車の荷台からひょいっと飛び降りた。さっき驚きのあまり放り投げてしまった鞄を拾うため、地面に手を伸ばす。

午後も三時を過ぎて、西に傾き始めた日の光を遮るようにして出来た目の前の影が、一足先にそれを拾って砂埃を払うと、両手で恭しく差し出してきた。


「あ……ど、どうも」
「いえ。どういたしまして」
 鞄を受け取ってぎこちなくお礼を言ったオレに笑顔で返事をしたのは、うちの学校の生徒ではなく、駅でたまに見かけるS市の某お嬢様学校の生徒だった。
「あの、突然ですみません。西園寺高校の小原悠生君、ですよね?」
 オレより少しだけ目線が低いその子は、見るからに小柄で、美人というよりも可愛らしい感じだ。緊張しているのか俯いているせいで表情がよく見えない。だけどお嬢様学校らしい清楚さを感じさせる真っ白なセーラー服や、夏の青空を連想させるライトブルーのスカーフの色が、肩まである艶やかなストレートの髪に映えていて、とても印象的だった。
「あ、はい……あの。そうです、けど」
 恐縮しながらオレが答えると、
「えっと、私。聖鈴(せいりん)学院の一年生で、秋川リナといいます。小原君の大ファンです!あの、これよかったら読んで下さい!」
頭を深く下げて、シンプルなデザインの封筒をオレの眼前に差し出した。驚きで暫しの間固まっていたオレは、慌てて、飛んでいた意識をリバースさせた。

「あ……どうも、ありがとう、ゴザイマス……」

差し出された手紙を一礼して受け取ると、顔を上げた聖鈴の子はホッとした様な表情を見せて、最後にお辞儀をして走り去って行った。


(うわ、ビックリしたぁ……)
 毎日、名前も知らず顔も見た事ない方々からお手紙を頂いてしまうオレだけど(当然、男から貰ったものは除外して)こんな風に、直に手渡しで貰う事って実は滅多に無い。
 そもそもオレが貰う手紙の大半は、好きな人に向けて書かれたものというよりは、芸能人とかに……例えばあの、怪しげな社長のいるジャ○―ズ事務所に所属しているアイドルの皆さんに送るファンレターみたいなものが殆どだった(実際アイドルに送られたファンレターを見た事はないけど、貰った手紙を勝手に見たオレの姉ちゃんにそう言われて、馬鹿にされたことがある)返事もそんなに期待してなさそうだし。 

内容も『今度一緒にプリクラ撮って下さい』とか『一緒に〜いきませんか』とかが多い。まあ、こんなのは別にいいんだけど。

たまに、アイドル雑誌の切り抜き?みたいなものが手紙と一緒に入っていて『この洋服是非着て下さい!』『こんな髪型が似合うと思うんですけど!』などの意味不明なリクエストが入っていたりする。皆様オレをモルモットか何かと勘違いしていらっしゃるのだろうか……
 常にオレが貰う手紙はそんな感じなので、今回みたいに、真面目な内容のもの、しかも直接顔を見て渡されるといった時、その相手はいつもオレではなく、律だった。
 手紙の内容に一つにしても律の場合は、真剣にお付き合いして欲しいというのが大半で、写真代わりに(きっと目一杯頑張って可愛く写る様に何度も撮り直しをしただろう)プリクラが入っていたり、手紙の最後には返事を願う言葉と共にメアドやケー番が添えられていたりと、本気度の高いものばかりだった。

だけど今日のこれはもしかすると、久々にオレにも春が訪れる予感が!(実際は夏真っ只中だけど)

「最近の聖女のお嬢様は、世間知らずなのか、男を見る目が乏しいな」
 若干浮かれ気味だったオレの気分を、律の冷ややかな呟きが地の底まで一気に叩き落としてくれた。

(なにぃ!今、何て言った!?)
「お前なあ!喧嘩売ってんのか?超、見る目ある子じゃん。さっすが、聖女だね!」
 意気込んでオレが言うと、律は面白くなさそうにオレから顔を背けると、そっと目を伏せて視線を地面に落とした。

 

(―――そう、しかも相手があの聖女の子なんだよ!)
 普段オレ達が貰っている手紙の差出人の殆どは(しつこいようだけど、男からのものは却下で)うちの学校から歩いて五分とかからない距離にある、公立の共学校の女子生徒達だ。
 公立高校は私立よりも勉強時間が短くて授業が終わるのも早いので、オレ達の授業が終わる前に、学校帰りに下駄箱に手紙を入れていくらしい。

それは多分、帰り道にある行きつけのコンビニへ立ち寄ってお菓子を買ったり、本を立ち読みしたりするのと同じで、彼女達にとって手紙を書いて渡す事は、暇つぶしの一環というか、重要な意味を持たない日課の一種みたいなものだと思っている(少なくともオレ宛の手紙に関しては)。

だから、憧れのお嬢様学校の聖女の子が遥々電車に乗って、わざわざ手紙を渡しに来てくれたなんて、そりゃテンションも俄然上がるってもんでしょう!

ここから電車で約十分、S市にある私立聖鈴学院女子高校、略して『聖女』と呼ばれるこの学校は、オレ達の通う西園寺高校や、オレが前住んでいたE市にある泉ヶ丘(いずみがおか)高校と並んでレベルが高いとされている名門校だ。また、学力もさることながら、設備の整った私立の学校特有の学費その他諸々の関係上、そこそこ裕福な家庭の子でなければ、入学するのは難しい。つまりお金持ちの優秀なご息女達が集まった学校というわけだ(まさに西園寺の女の子バージョン)。

 我らが西園寺高校とは、その校風や学力レベルの共通点もあって、昔から何かと交流がある。まぁ、交流といっても、それぞれの文化祭にお互いを招待するとか、その程度だけど。


「お前が聖女の子相手にすんのは、十年、早い」
 再びチャリに座った律は、右の人差しをチョイチョイと動かしてオレを呼んだ。指の動きに従って招かれるまま近づくと、律はいきなり左手でオレの前髪をかき上げて、パシッと額にでこピンをした。うぎゃ!
「いって!バカ、急に何すんだ!」
 涙目になりながら、赤くなっているだろう額を擦る。お〜、イテテ。
「別に。珍しく色ぼけていらっしゃるから、ちょっと、喝を」
「いらんわ!大体、十年早いってなんだよ、ったく」
「言葉通りです。そういう事は人並みに『社会』という常識をちゃんと知ってからじゃないとね。社会科八点の、悠生君」
『やかましい!社会は今関係ないだろが、ばかりつ!』
 そう叫んでやろうとしたら、先程去ったはずの大魔王が、再びオレの目の前を嫌な羽音と共に横切った。

(ぎゃああああ!!出た!また、出た―――っ!)

「……社会の前にまず『こっち』を先に克服しなきゃかな」

再び律に正面からしがみ付いたオレは、数分前と同じく、可愛らしいコアラに舞い戻った。

 

くそ……夏よ。さっさと終わってしまえ!

 

 

【ACT3】END

                       2014/10/27 up