鏡の前に、誰かが立っている。
背中の半ばまである色素の薄い茶色の髪には毛先に緩いカールが巻かれていて、頭上には大きくて真っ赤なリボンが堂々鎮座していた。
視線を下に落としていくと、銀色に光る鏡に映し出されている顔面は華やかなメイクで彩られている。
ビューラーなる器具で持ち上げられた無駄に長いまつ毛には、ラメの入ったマスカラを仕込まれたおかげでキラキラと輝いていた。
その上の両瞼には秋色を意識したベージュとオレンジのアイシャドウが、頬には可憐さを演出したとかいう淡いピンク色のチークが施され、常に頬が紅潮して見える仕様になっている。
そして尤も目を引くのが、口元だ。薄い唇に引かれたローズの鮮やかな色彩が肌の白さを一層際立てていた。
認めたくはないが、どこからどう見てもれっきとした女性に見えるこの人物の正体は、西園寺高校一年、小原悠生。つまり―――オレ。
「うわあ悠ちゃん、いい!メチャメチャかわいい!」
メイク後のオレを満面の笑みで出迎えた章太は、興奮冷めやらぬといった様子で大仰に称えてくる。
「どこからどう見ても完璧な女の子だよー!これで衣装に着がえれば本物の白雪だね、凄いリアルお姫様ぁ〜!」
「……あーそうですか。そりゃ、どうも」
オレは口元をひきつらせながら棒読み全開で礼を述べる。
「女装ネタって毎年必ず出るらしいけど、これは絶対に歴代一位だって!ねえ、先生」
「―――え?ああ……そうだな」
無言でオレを見ていた律は章太の呼びかけに我に返ったような表情で返答した。
「悠ちゃんってば才能あるよ!」
「なんの才能だよそれは……全然嬉しくないんですけど」
ハア……溜息が口から大量に零れ落ちていく。
一時間かけて念入りに施された化粧のおかげで、心身共に疲れ切っていた。何事も初めての経験というのは、慣れない分大変だったり手間がかかったりするものだけど、事化粧に関してはきっと何度経験しても慣れない。大変だし、嫌だし、もう二度とするものかと心に固く誓う(いや、勿論二度目なんて一生ないんですけど)。
「女の人って大変なんだな……」
オレ、男に生まれて本当に良かった。今日ほど自分の性別に感謝を覚えた日は無い。
「どうしたの悠ちゃん。なんか元気ないねー?せっかくこんなにかわいく変身したんだし、ほらあ。笑って笑って!」
「楽しくもないのに笑えません」
「ええー」
頬を膨らませてわかり易く不満を露わにした章太は「ま、いいや。本番ではとびっきりの笑顔を期待してるからね!」と告げて、現在出演者控室となっている教室を出て行った。
章太がいなくなってからも律は腕を組みながら壁に寄りかかっているだけで、口を開こうとしない。
(……なんで何も言わないんだ?)
熱のこもったような強い視線にいたたまれなくなり「ど、どう。これ、やっぱ変?おかしい?」と自分から感想を求めてみる。
「……あー。これはかなりやばいかも……」
ぼそ、と小声で何かを呟いた律は、片手で口元を覆いながら視線を床に落とした。
(え、今何て言ったんだ?)
疑問を声に出そうとした矢先、おもむろに顔を上げた律が今度はちゃんと聞き取れる程度の音量で言った。
「お前、絶対に本番まで校内を出歩くなよ?」
「……は?」
唐突に言われて一瞬意味がわからず沈黙した後、律の言わんとしていることに思い当ったオレはいささか憮然としながら返事をした。
「言われなくても、別に出歩かねえよ」
こんな情けない姿を不必要に人前に晒すなんて、頼まれてもするかと口を尖らせるオレに律は「そういう意味じゃない」と言って眉間に皺を寄せた。
「じゃあどういう意味」
(こんな格好じゃみっともない……以外に何の理由があるんだ?)
「今日は他校の生徒も沢山来てるから、一人でいたら危ないだろ」
「危ないって、何が」
「言わないとわからない?」
肯定の意を示すため頷くと、律は口元に笑みを刻みながら教えてくれた。
「……もし俺だったら、こんなかわいい子を見つけたら速攻で声かけて、どこかの空き教室に連れ込むから」
「はっ……!?」
(そ、そういう意味かよ!)
自分が想定していた杞憂とは全然違ったらしい。
かなり直球で口説き文句のような軽口にどう返したらいいかわからず、みっともなくうろたえる事しかできない。
「……っ、な、に、言ってんの」
「ん?だって絶対我慢できないと思うし」
我慢ってなにがと訊くこともできず、テンパった頭でオレは的外れな指摘をした。
「き……今日は、どの教室もみんな使ってるはずだから、あいてるところなんてないし……」
「確かにそうだな。じゃあどこか、他の奴に邪魔されないような所へ連れて行く」
「それじゃあ、誘拐になっちゃうじゃん」
「うん。だから、誰かにさらわれないように気をつけろって言ってんの」
「意味わかんないんですけど」
「悪い奴に連れて行かれそうなくらい、お前がかわいいってことだよ」
「……馬鹿じゃないの、お前」
(あーもう、何だこの会話)
赤くなった顔で睨んでも迫力に欠けるだろうか。
優しく笑う律の顔を正視するのが恥ずかしくて顔を逸らすと、後ろ髪を軽く引っ張られた。
「これ、ウイッグ?」
「あ、うん。なるべく自然に見えるようにって、オレの地毛に限りなく近いものを用意したんだってさ……特注で」
こういうのって結構いいお値段するだろうに。
たった一度だけの劇のためにわざわざ用意するなんて、金持ち学校の成せる業というべきか。
「あー、だからか……どうりで違和感無いと思った」
「どこがだよ。ありまくりだし」
否定するオレに律は笑顔で茶化してくる。
「全然ない。皆無。違和感は完全にログアウトしました」
負けじとオレも即座に応戦する。
「お前だってひとのこと言えないだろ。なにその衣装、似合いすぎて笑えない。違和感が全然仕事してませんけどー?」
律は姫役のオレと違って化粧をする手間がないので、ひと足早く王子役の衣装に身を包んでいる。
たとえるなら英国の王子様が着ていそうな服装だ。
一般の、ましてや純日本人が着て誰でも似合うものではないだろうに、背も高いし細身だから難なく着こなしてしまっているというか。
同じ男としてちょっと悔しいけど、凄く似合っていると思う。
(やっぱ元がいいから何着ても格好いいんだよな、律って……)
内心一人で感嘆していると、律はそんなオレの心の声が聞こえていたかような言葉を投げかけてきた。
「それって、笑えないくらい格好いいってこと?」
「あ、まあ……それなりにいい感じなんじゃないの」
控えめに肯定すると、調子に乗ったのか律は更にとんでもないことを言ってきた。
「結婚したくなるくらい?」
「あ?!そんなこと言ってない、一言も!」
「似合ってるし格好いいって言っただろ、今」
「だからっていくらなんでも話が飛躍しすぎだ、あほか!」
「……俺は、したいけど」
「……は?」
それまで浮かべていた笑みをすっと潜めて、急に真顔になったからドキッとした。だけどよく見たら目が少し笑っているのに気づく。多分、からかわれているんだろう。その証拠にすぐに笑顔に戻って、話題を変えられた。
「ほら、そろそろ時間だから着替えてくれば?」
「わかってるよ。今行こうと思ってたの!」
「そ、じゃあ気をつけて」
「なにに気をつけるんだよ」
「だから、俺以外の男にだよ」
「あー、はいはい」
まだ冗談を言っている律に適当に返事をして着替えに向かう。去り際に律が「全部本気だし」と言ったような気がしたけど、それが何のことなのかオレにはわからなかった。
***
着替えも済んで開演時間になり、いよいよ第一幕が始まった。本日の主役であるオレ、白雪が舞台に登場すると客席のそこかしこから「えーあれ男?」「嘘、本当に女装なの?」といった驚愕の声が聞こえてくる。
(男に決まってるだろ、ここをどこだと思ってるんだ。男子校だぞ)
怒りの声はひとまず胸に収めて、最初の台詞を口にした。声の低さで男だと理解されるのはいささか屈辱ではあるけど、現状の姿では致し方ないと自分を無理やり納得させる。
待望の王子様登場シーンでは、悲鳴のような声の入り混じった黄色い声援がホールのそこかしこで飛び交っていた。このまま劇を中止して観客同士で合唱大会でも開けばいいのにと思ったくらいだ。予想を上回る王子様の人気ぶりに、ちょっと、いやかなりムカつきながらも、劇は終始順調に進んでいった。
そして早くも終盤、クライマックス。
この劇の一番の見せどころである例のキスシーンが、ついにやってきた。
練習で散々緊張したせいか、本番では思っていたよりもすんなりと目を瞑ることができてほっとする。
あとは王子が姫に口づけて、姫が生き返りめでたしめでたし、で劇は終了だ。
ドキドキしながら、死体になったオレはその時を待っていた。
いよいよ毒りんごを食べてしまった姫に、王子が近づいてくる。一歩、また一歩と。
そして横たわった白雪姫の前に跪き、頬に手を添えて―――王子の顔が近づいた、その時。
それはまるで夢のような、一瞬の出来事だった。
(――――――!)
唇を、塞がれている。
フリじゃなくて、本当にされている。
その事実を認識した途端、心臓が早鐘を打ち出し胸が息苦しさで押しつぶされそうになった。
「…………ッ」
唇を覆っていた感触がゆっくりと離れていくのがわかる。そのまま顔を上げたのが気配で伝わったけど、オレはそのままずっと目を閉じていた。
(……今の、なに)
すぐには信じられなくて、もしかしたらたちの悪い何かの冗談だったんじゃないかと考える。
そうだ、きっと律のことだから、オレをびっくりさせようとしたに違いない。
もしくはフリよりも実際した方が演技にリアリティが増すからとか。そんな理由なんだ。
だから目を開けたら、きっとしてやったりな律の笑顔が視界に映ることを想定していたのに―――予想に反して律は怖いくらい真剣な顔をしてオレを見ていた。冗談なんて思わせる隙が全く無いくらい、全然笑ってなんかいなかった。
茫然として固まっていると、やがて律は表情を一変させて、今度はとびきりの笑顔で「お目覚めですか、姫」と最後の台詞を口にした。
「………………」
一瞬の静寂の後、突如観客席から一斉に湧き起った大歓声にハッと我に返る。
その瞬間、静止していた時間が動き出したかのように、動きを止めていた呼吸器官が本来の機能を果たすべく身体に酸素を取り込み始めた。
浅い呼吸を何度も繰り返し、バクバクと全力疾走している心臓に必死で栄養を送りながら今の出来事を―――そして過去の記憶を反芻する。
(同じだった……)
もしかして。いやちがうだろ。まさかそんなわけないと軽い気持ちで否定して受け流した、花火大会の日。
あの時の感覚と全く一緒だった。ほんの一瞬だけ、風が通り過ぎる刹那の間に触れた、あたたかくて柔らかな感触。
鮮やかに蘇る―――甘くて優しい、小さな恋の味。
(やっぱり、そうだったんだ)
目を瞑り閉ざされた視界の中で、周囲には沢山の人がいて。環境は多少違えど、今と似たようなシチュエーションだからこそ、脳と身体の記憶が反応した。
客席からは勿論、舞台袖から見ていたとしても、さっき舞台上で何が行われたのか正確に把握している奴はいないだろう。演技だから当然しているフリだと思ったはずだ。
だけど当事者のオレだけは、わかる。フリじゃなくて本当にした、その『意味』も。
あのキスは―――律からオレに送られた、甘すぎる無言のメッセージ。あの日の再現をすることで、花火大会の時も今日と同じことをしたんだと、オレに確信させた。
(本当だよな。夢じゃ、ないんだよな……?)
唇を指でなぞりながら、頭の中でさっきの場面を繰り返し反芻する。あれは確かに夢じゃなくて、現実に起こったことだ。その意味を―――オレは、どう受け止めればいい?
(律も、オレと同じ気持ち?)
どうしても自分の都合のいいように解釈してしまうのは、愚かな事なのか。だけど。
(これで期待しない方が、どうかしてるだろ……!)
ああもう、どうしよう。
意味もなく、どうしよう、どうしよう、と頭を抱えてその場に座り込んだ。人間って、嬉しすぎるとどうしていいかわからなくなる生き物らしい。それとも、そんなのオレだけか。
(もう、だめだ)
気持ちがどんどんあふれてきて、胸の中がいっぱいになって、息が苦しくなる。こんな状態のまま長くいたら酸欠で倒れてしまいそうだと本気で思った。こうなったらもう、この状態をどうにかする方法はひとつしかない。
(……決めた)
秘めてきた想いを今日、うちあける。今の気持ちを全部ぶつけて、答えを貰いたい。さっきのことや花火大会でのこと……それから、オレのことをどう思っているのか、本人の口からはっきり訊きたい。ちゃんと確かめたい。
―――拍手喝さいのカーテンコールの中、舞台から真正面にあるホールの時計で時刻を確認する。
文化祭終了まで、あと二時間。
告白まで、運命のカウントダウンが始まった。
【ACT14】END