―――暦の上では既に十月、銀杏並木の紅葉が色鮮やかな秋。
あの忌まわしき「せの字」の出没におどおどビクビクしながら背中を小さく丸めて挙動不審に過ごしていた夏は終わった。
だというのに、夏の風物詩が齎す恐怖とは全く異なる種類の脅威に絶賛晒され続けている―――今現在のわたくし。
「ちょっ、ちょっと、ま、待って」
正面から真っ直ぐに目が合った途端、心臓が早鐘を打ち始め、人間が生きていくうえで最低限必要である、口から息を吸うという行為ですら遂行困難になる。
「なんで。どうしたの」
「オレ……っ、こ、心の準備がまだ、出来てない……っ」
「……そんなの今更だろ。ほら、さっさと目ェ、閉じろ」
制止をいとも簡単に流した律は、身動き一つ出来ない状態でいるオレに向かって躊躇うことなく顔を近づけてきた。
「や……ッ、だから待て、ってば……っ」
蚊の鳴くようなか細い声で息も絶え絶えに訴えても、律は顔色一つ変えずにどんどん距離を縮めてくる。オレは何とかして律を止めようと必死に懇願した。
「やっぱ駄目。も、ほんと、無理だって……!」
実は今のオレに拒否権なるものは存在しなかった。だからといって安易に了承する事など出来るはずもない。
逼迫した空気の中、早くしろと急かされるたび、無理、と首を横に振って目を瞑る事を頑なに拒んでいると、律が吐息交じりの小さな声でほら、と囁いて赤く染まっているであろう頬をそっと撫でてくる。その間にも距離はどんどん狭まっていき、オレ達を隔てる空間はもうポッキー一本分にも満たない。
「駄目じゃない。いいから、早く」
有無を言わせない強さを持った声が、緩やかに鼓膜を震わせる。
上昇の一途を辿っていた身体中の血液が、とうとう沸点に達した。
「………ッ」
頭がくらくらする。アルコールを過剰に摂取した時の感覚に少しだけ似ているような気がした。頬が熱くて、身体も熱くて、酸欠で、今にも倒れそうだ。といっても、実際今のオレは既に倒れているというか、床に横たわっている(つまり、寝ている)状態なので、昏倒の心配など全くの無用だったりするのだけど―――と、そんなことは、さておき。
(こんなの出来るわけない。絶対無理だ無理すぎる……!)
いつまでたってもいう事を聞かないオレに痺れを切らした律は「……どうせ向こうからは見えないから、まあいいか」と言って口元に不適な笑みを浮かべ、瞼を閉じた。そのまま重力に従うようにオレの顔を目掛けてゆっくりと降下してくる。
「……っ!」
目を瞑っていても秀麗さを一ミリも損なう事のない顔に思わず目を奪われた、その時。
「―――ストーップ!」
突如頭上から天の声が耳に飛び込んでくる。オレは藁をも掴む決死の想いで、某ゲームの有名な呪文を小さく唱えた。
(ザオリク!)
眼前に迫っていた律の顔を両手で力一杯押し返して、上半身を起こす。呪文が効力を発揮したおかげか、滞っていた血液が一気に巡り始め、それまで死体になっていたオレの身体は見事蘇生した。
「はあ……ッ」
さっきまで明らかに不足していた酸素が、口の中に大量に入り込んでくる。
「―――そこ、さっきから何二人でコソコソおしゃべりしてんだあ!?時間ないんだから、じゃんじゃんまきで行くよー」
ゆっくり心を落ち着ける間もなく、台本を手に持った朔哉から叱咤の声がかかる。オレは即座に片手を上げて、続行に待ったをかけた。
「ちょっと一回、休憩させて」
「却下」
「えっ、何でだよ」
「本番まで日がないし、王子も生徒会で忙しいから時間ないんだよ」
というわけだからさっさとスタンバイしてねと笑顔で非情な事を言う朔哉に、額に青筋を立てて不満を漏らした。
「労働基準法という尊いモラルを知らないのか……!お前は見てるだけだからいいけどな、やってるこっちは色々大変なんだよ!」
「えー、オレだって大変だったよ。この脚本書くのに何日も頭悩ませたし」
朔哉はへらっとした締まりのない笑みを浮かべながら、大げさに肩を竦めてみせる。
「そもそもお前の書いたこの脚本に問題があるんだ!こんなシーン、本当はなくてもいいはずだろ。確かグリム童話の白雪姫は、棺を運んでいた家来がうっかりこけた時、喉に詰まっていた林檎が取れて息を吹き返すっていう、至極単純なお話なんだから」
「ところがですね〜ディズニーバージョンだと、そこは王子様のキッス!で目覚めるんだなあ。そっちの方が断然夢があっていいだろ!なあ、お前はどっち推奨なの?」
朔哉がもう一人の主役である律に話を振ると、間髪入れずに答えが返って来た。
「勿論、ディズニー」
「おい!」
「そんなの当然だろう?」
「なんでだよ!?」
「よく考えてみろ。キスシーンの無い白雪姫なんて、ショートケーキに苺が乗っかっていないみたいなもんだ。もしくは、牛肉が入っていないすき焼き弁当」
「は……?」
(何だそれ。つまり、メインがないってこと?)
意味不明な律の持論に首を傾げていると、床に片膝をついた朔哉が「王子様たっての強い要望につき、キスシーンは絶対必須ということで!」と言ってオレの両肩を労うようにバンバン叩いた。
「オレの意志は完全無視ですか……」
敗北感に打ちひしがれ床に蹲っていると、颯爽と立ち上がった朔哉から容赦なくスタンバイの声がかけられる。
「はーい、それじゃあシーン十五。もう一回、頭からいきまーす」
「だってさ。ほら、悠」
促されてしぶしぶ床に横たわった。クライマックス部分、王子様の登場シーンから再スタートだ。
―――説明が遅れたが、今オレ達がやっているのは来週末にある文化祭で披露する、演劇の予行練習だ。演目は……勘が鋭い方なら、もうお気づきだろう。寝ているお姫様に王子様がキッスをかまして、目出度しハッピーエンドで終わるアレ、だ。
日本のみならず世界中で有名な名作中の名作、物語の王道トップファイブに間違いなくランクインされるであろう『白雪姫』。
このたび目出度く……いや本当はちっとも、これっぽっちも目出度くも嬉しくもないが、劇のタイトルにもなっている主役の座を頂いてしまったのだ。勿論、姫役なんて受けたくなかったけれど、クラス全員の多数決において公平に決められたもので、オレの一存では断ることが出来なかった。決して、こんな役を自ら買って出るなどという愚かな行為の結果こうなったわけではないことは、声を大にして言っておきたい。
と、厳かに前置きしてみたものの、本来であれば絶対に引き受けなかっただろう役を渋々とはいえこうして演じている。それはつまり引き受けるだけの理由があったからだ。
その理由が、今まさに大苦戦しているこのキスシーンなわけですが。
「よーい、スタート!」威勢よく声がかけられて、王子である律がオレに近づいてくる。ラストシーン、毒林檎を食べさせられて仮死状態になった姫に、王子が口づけをする場面だ。本来ならばここでオレは、ただ目を瞑って王子がキスをする(といっても、勿論したフリだけど)のを待つだけだ。しかしながら、実際は。
「だから早く目を瞑れって。じゃないと、出来ないだろ」
同じことを何度も言われているのに、やっぱり全然上手くいかない。
「ちょ、ちょっと待って」
わかってはいるけど、フリだけとはいえ結構際どいところまで顔を近づける必要があるから、オレにとっては凄く大変なんだ。簡単に出来る事じゃないんだ。だからこそ、オレ以外の奴にはさせたくない。相手が男だろうが、演技だろうがフリだろうが、こんな風に律が誰かを見つめて愛の言葉を囁いたり、あまつさえキスしたりするなんて、絶対に嫌だ。
たとえ女装しようが化粧されようが、役の立場上でさえ律の隣に立つのは自分以外許せなかった。
「……早く」
「わかっ……てる、よ……っ」
短く、強い声で促してくる律に、オレはしどろもどろになって答える。だけど中々目を瞑ることが出来ない。少し伏せた目でじっと見つめられると、呼吸も忘れて目を閉じるどころか逆に大きく見開いてしまった。律はハア、と大きな溜息をつくと、長いひとさし指でオレの眉間をデコピンしてきた。
「痛っ!」
「そんなに硬くならなくても、ただ目を瞑ってるだけなんだから、楽だろ?台詞もないし」
「な……っ、楽じゃねえし!」
勿論台詞を覚えるのなんて、オレにとって朝飯前、何ら苦になるものではない。実際自分の配役のみならず王子から小人から敵のお妃様の分まで主要人物の台詞は全て頭の中にインプットされている。何度か台本を読んでいるうちに、オレの無駄に優秀な頭脳が勝手に覚えてしまったからだ。
(台詞がないから楽だなんて、そんな短絡的な問題じゃないんだよ。アホ律!)
言葉に出来ない葛藤を口にする代わりに、オレは極めて現実的な事実で反論した。
「大体眠っているといえば聞こえはいいけど、このシーンの姫って要は喉に林檎が詰まっちゃって仮死状態。つまり、死んでいるに等しいってことだろ。死体の役なんてやったことないんだから、簡単に出来なくて当然だ」
「……死体とか、夢もロマンも無い言い方だな」
「オレこう見えてもリアリストだから」
「今俺達が演じているのは、リアルとは対極にあるファンタジー世界のお話だってこと、わかってるか?」
「頭で理解しているからといって、実際に行動出来るとは限らない」
ああ言えばこう言うオレに、律は眉間に皺を寄せて呆れたように零した。
「ああそうですか。とにかく死体でも何でもいいから、まずは目を瞑ってくれ。じゃないといつまでたっても終わらない」
確かにその通りだ。今度はちゃんと律の言葉に納得したオレは反論するのを止め、覚悟を決めて頷いた。
「……わ、わかった……」
すう、と大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出す。
(―――よし。今度こそ)
一呼吸おいて準備も整った所で、いよいよ目を瞑ろうとした瞬間―――「はい、ちょっと一旦止めまーす!」という予定外の邪魔が入り、オレの決意は見事失敗に終わった。
(何だよ、もう!)
せっかく今出来そうだったのに……と目一杯落胆しながら身体を起こすと、さっきまで姿が見えなかった章太がオレ達のもとへ駆け寄ってきた。
「お取り込み中にごめんねえ!僕さっきまで職員室に行ってたんだけどさ。その時ちょうど会長に会って、先生に至急生徒会室に来るようにって伝言頼まれたんだ」
今度はオレの不手際で中断されたのではなかったらしいことに、ひとまず肩をなで下ろす。生徒会の方でも文化祭で出し物をやるため、役員の一人である律は度々こうして呼び出されることがあった。
「ちょっと行ってくる」
「ん」
「いってらっしゃーい!」
主役の片割れがいなくなり、今日はもうお開きかなと思ったら案の定後ろで話を聞いていた朔哉が「王子に急用が入ったんで、これで終わりにしまーす!」と皆に撤収の声を掛けた。
「この続きはまた来週な。今度はNG厳禁だぞ、悠生!」
「……はいはい、わかりましたー」
口ではしおらしく返事をしつつも、後ろを向いた朔哉の背中にベーッと舌を出してやる。
「悠ちゃん、練習どうだった?本番は上手くいきそう?」
「んー……概ね順調だ……と思う」
今日やったラストシーンを除いては、ほぼ完璧だ。あそこだけは、NG出しまくりだけど。
「そっかあ、良かった。悠ちゃんのお姫様、楽しみにしてるからね!」
「あー……ははは、頑張りマス……」
心の籠っていないカタコトで力なく了承の意を示し、自分の席に向かおうと立ち上がった時。
「あれ、これって……」
さっきまでオレと律がいた辺りに視線を落とした章太が床にしゃがみこんで何かを拾うと、掌を見せてくる。
「悠ちゃんの落とし物?」
丸くて小さく光るものが一つ手の上に鎮座している。何だこれ。(ピアス?)
「……いや、オレじゃない。けど……」
「けど?」
「―――多分それ、律のだと思う」
「ほんと?」
章太の掌からそれを手に取り、自分の目の高さまで持ち上げて眺めてみる。
「うん。やっぱりそうだ」
以前にこれと同じ物を見たことがある。確か、夏休み前だったっけ……と曖昧になった記憶を辿っていく。
「そうなんだ。じゃあ悠ちゃん預かっていて貰える?僕この後用事があるから、すぐに帰らなくちゃいけないんだ」
「わかった。帰ってきたら渡しておくよ」
制服のポケットにピアスを放り込んで、章太に別れを告げた後、自分の席に戻って頬杖をつく。
(すぐ戻ってくるかな、律……)
待つ間暇つぶしに始めた携帯のパズルゲームに夢中になっていると、十分も経たないうちに律からメールが来た。
(今日もまた、一人か)
先に帰るようにと書かれたメールを眺めながら溜息を吐いて、携帯画面をオフにする。暗くなる前に帰ろうと、席を立ち誰もいなくなった教室を後にした。
***
帰宅後夕食を済ませ片付けも終わって一息ついた午後七時半。
玄関で来客を知らせるチャイムの音が鳴った。
(こんな時間に、誰だ?)
律なら今日は遅くなるからここに寄らず直帰するはずだし、同居人である姉は鍵を持っているので、わざわざ呼び鈴を鳴らす必要はない。もしかして変な勧誘じゃないだろうなと警戒しながら「どちら様ですか」と声を掛けると、ドア越しから「悠生君?雪乃ですけど」と返ってきた。慌てて扉を開くと、右手にコート、左手に小さな紙袋を持った雪乃さんが立っている。
「こんばんは」
「あれ?今日って……」
家教の日じゃなかったよな?と一瞬戸惑った顔をしたオレに「あ、違うの。今日はお勉強じゃなくて、みっちゃんに用があって来たんだ」と来訪の理由を述べた。そういう事かとすぐに合点がいったオレは、雪乃さんを居間に案内した。
「よかったら、どうぞ」
アップルティーを差し出すと雪乃さんは「ありがとう」と言って一口飲んだ後、テーブルの上に置きっぱなしになっていた台本を手に取った。
「これ、もしかして文化祭の出し物?」
「あ、はい。そうです」
「懐かしい。私も高校生の時見に行ったことあるんだけど、楽しかったなあ。西園寺って確か各クラスの演目の人気投票とかあるんだよね。悠生君のクラスは、何をやるの?」
「……えーっと。演劇、なんですけど」
「何のお話?」
「し……白雪姫、です……」
「そうなんだ。悠生君は何の役なの?」
「え、っと…………、き、です……」
「え?き……って、もしかして、『木』?」
ボソボソと蚊の鳴くような声音で言ったせいで、語尾の単語しか聞き取れなかったらしい。
「あ、木、じゃなくて……し、しら、ゆき、です……」
さっきよりも大幅にボリュームを上げて屈辱的な四文字の配役名を口にすると、ああ、と雪乃さんはほほ笑んだ。
「白雪姫なのね。悠生君主役なんだ」
「まあ……タイトルの役柄上、一応そうなりますね……ただし自ら名乗り出たわけではなくて、あの、男子校ゆえの尊い犠牲というか、その、多数決という本人の意思を完全無視した不平等な民主主義的な意見でもって決められたというか……」
言い訳がましく言うと、雪乃さんは実に明瞭且つ簡潔な一言で、オレの心境を正確に言い当てた。
「あまり乗り気じゃない……というか、やりたくないのね」
―――ドキ。
(はい。その通りです)
「出来ればやりたくないです……姫役、なんて」
顔を覆って項垂れると、雪乃さんはすかさずピントのずれたフォローを入れた。
「でも悠生君がやったら、凄く素敵なお姫様になりそう」
ニコニコと屈託のない笑顔で言われてしまうと、なんだかこっちまで気が抜けてしまう。
(いや、別に素敵かどうかはあんまり重要じゃないんですけど……それに)
「オレ、男なんですよ?男子のやるお姫様なんて、気色悪いだけですから」
「普通の男の子ならそうかもしれないけど、悠生君なら全然大丈夫」
「でもっ、化粧とかされて鬘なんかもつけられて、おまけにすっ、スカートまで穿かされるんですよ……!」
絶望感に打ちひしがれながらこの異常事態を訴えると、雪乃さんはどこまでもマイペースな笑顔でのたまった。
「凄い可愛いくなりそう。イメージピッタリだと思うけどな」
「いや、それをいうならオレよりも相手役の方が数百倍ド嵌りしてますから……」
「相手役って……王子様のこと?」
「はい。オレの従兄弟で……身内のオレが言うものなんですけど、かなりの男前というか、美形というか。見た目は勿論のこと、行動や言動含め現代版王子の具現化みたいな奴なんです。もうほんと、その有様たるや、嫌味なくらいで」
「そうなんだ……そんなに格好いいなら、きっと彼女も凄くかわいい子だよね」
「いや、彼女はいませんけど、目茶苦茶モテますね……っあ、ちょっとすいません」
話を中断して、コール音が鳴っている携帯を制服のポケットから取り出し、電話に出る。
「はい?……ああ、うん。あのさ、今雪乃さんが家に来てるんだけど……って、え?……あー、じゃあ夕飯はいらないんだな。わかった」
手短に用件だけ話して通話ボタンをオフにする。雪乃さんは今の会話で相手が誰だかすぐにわかったらしい。
「みっちゃん、今日は遅くなるの?」
「はい。残業で帰りはてっぺん過ぎるかもしれないから、今日は会えないって言ってました。すみません、せっかく来てくれたのに」
「あ、ううん。約束してたわけじゃないから、気にしないで。あの、それじゃあ悠生君、これをみっちゃんに渡して貰えるかな。お誕生日プレゼントなんだけど……」
「あ、はい!」
そういえばもうすぐ誕生日なのか。身内で同居人のオレですらすっかり忘れ去っていたのに、あんな鬼のような女にわざわざプレゼントを持ってきてくれるなんて、なんて優しい人なんだろうと心中で感嘆しながら、差し出されたものを受け取る。
「わざわざどうもありがとうございます。えーっと、これ……食べ物とかじゃないんですよね?」
渡された小さな紙袋を持ち上げて念のため確認すると、雪乃さんは大丈夫だと頷いた。
「お誕生日だからケーキがいいかなって思ったんだけど、みっちゃんてあんまり甘いものが好きじゃないでしょう?だから、ピアスにしたの」
「ピアス……?」
(って……そういえば、確か今日)
ハッとなりポケットの中に手を入れると、指先に小さくて堅いものが触れる。
「―――あった」
返すつもりで持っていたものの、あの後結局律に会えなかったから持ち帰ってきたんだった。一応預かり物なわけだから無くしたら大変だ……とポケットからピアスを取り出して、テーブルの上に置いた。
「それ、悠生君の?」
「これですか?いや、オレピアス駄目なんですよ。耳に穴が開く恐怖に耐えられない性分なもので。それは従兄弟の忘れ物を今日たまたま預かっただけです」
「……そう。私も、初めて開けた時は怖かったな」
心なしか表情を曇らせて言う雪乃さんに、そんなに痛いのか、と恐る恐る訪ねてみる。
「やっぱり痛いんですか、開けるのって……」
「ちょっとだけ、ね。でも私は好きな人に開けて貰ったから、平気だったけど……あれ、もうこんな時間。このあと本屋に寄らなくちゃいけないから、そろそろ帰るね」
「あ、はい」
時計を見ながら腰を浮かせる雪乃さんに、オレは改めて礼を言う。
「今日はほんとにありがとうございました。これ、渡しておきますんで」
「うん。よろしくお願いします。それじゃあ、また来週」
玄関で靴を履いて帰ろうとする雪乃さんに、オレは慌てて後ろから声を掛ける。
「あっ、来週の金曜日なんですけど……日曜日が文化祭本番なんで、お休みさせて貰ってもいいですか?一応、台詞とか確認しておきたいんで」
もちろん、と快く了解してくれた雪乃さんに「お休みなさい」と別れの挨拶をして、ドアを閉める。
リビングに戻り電気を消して自室へ戻ろうとした時、テーブルの上に置きっぱなしになっているピアスの事を思い出した。
(―――危ね、また忘れるところだった)
暗くなった部屋に明かりをつけて、忘れ物を手に取ると再び電気を消して部屋に向かう。
(明日は土曜日だから、泊まりに来るかな……律)
ベッドに横になって、目を閉じながら浮かれたことを呑気に考えているうちに、いつの間にか眠ってしまったらしい。その夜見た夢には律が出てきて、内容は良く覚えていないけれどとても幸せな気持ちで朝を迎えたのだった。
後に―――この日の自分の行動がきっかけで起こる出来事に、心の底から打ちのめされる事になる……そんな暗雲たる未来が待っているとも知らずに。
【ACT13】END