忌々しい化粧を全て取り去り、煌びやかな衣装から制服に着替えて教室に戻ると―――見覚えのある女性二人の姿が目に映る。
途端、さっきまで胸の中を満たしていた甘い高揚感や余韻といったものが、一気に霧散した。
「お帰りなさーい、姫」
「お疲れさま、悠生君」
(何で、いるんだよ……!)
なんてわざわざ訊くまでもない。二人が手に持っているパンフレットを見れば、さっきの劇を観に来ていたことは一目瞭然だ。
雪乃さんはともかく、姉ちゃんにあのみっともない女装姿を見られていたなんて、最低、最悪だ。
きっとこれから事あるごとに今日の事を持ち出してネタにするに違いない。その証拠に、さっきだってわざとらしく姫、だなんて嫌味上等で堂々呼んでいた。ああまったく、恐ろしい。
「ど、どうも……」
動揺しつつもぎこちない笑顔で雪乃さんに会釈をすると、一緒に教室に戻って来た朔哉と一彦が気色ばんで訊いてくる。
「えっ、誰だよ!?この美女二人!」
「悠生の知り合い?!」
いつもながらに可憐で美しい雪乃さんは勿論のこと、一応弟のオレから見ても外見だけは文句のつけどころがない姉の御登場に、朔哉と一彦だけでなく教室にいるクラスメイト達も皆興味津々で様子を伺っている。
「知り合いっていうか……うん。一人は身内で、もう一人は家庭教師のひと」
「身内ってことは、もしかして悠生のお姉さん?!うっそ、どっち?!」
「左の可愛い感じの方じゃね?なんか悠生と雰囲気似てるし」
浮足立った様子で交わされる二人の会話に水を差すように、オレは即座に否定した。
「外れ。右の方がオレの……」
姉です、と紹介しようとした時。
「―――ねえ悠生、律は?」
唐突に問いかけられて、咄嗟に辺りを見回してしまった。
「えっと……今は、いないけど」
「それは見ればわかるわよ。だからどこにいるのかって訊いてるの」
「律なら今、生徒会室の方に行ってまあす!おねーさん!」
俺が答えるよりも早く、隣で話を聞いていた一彦が意気揚々と返事をすると、最初に挨拶を交わしたきり口を閉ざしていた雪乃さんが、表情を曇らせながら姉ちゃんに話しかけた。
『ねえみっちゃん、どうしよう』
『大丈夫だって。校内にいるんだから、すぐに会えるでしょ』
『うん……』
(……?なんだ?)
至近距離にいるとはいえ、小声で何を話しているのか内容まではわからない。
だけどいつもと違う、笑顔の無い雪乃さんを見て……何故か漠然と胸騒ぎがした。
(なんだろう、これ。なにかとても―――嫌な予感がする)
突然湧き起った得体の知れない不安に唇を噛んだ時、教室のドアから見慣れたシルエットが入ってきた。
「あっ、律!お疲れー!」
朔哉がこっちに来いと大きく手招きをすると、律がオレ達の元へやって来た。同時に、雪乃さんがゆっくりと後ろを振り返る。
―――その瞬間。
明らかに律の顔色が変わった。
驚きの色を露わにして、視線を奪われるように雪乃さんを強い瞳で見つめている。
(え……?)
初対面にはとても見えない。
どういうことだ、と訝しく思っていると、雪乃さんが律に向かって遠慮がちに声をかけた。
「……久しぶり、だね。元気だった?」
だけど律はその問いに答えることなく「……なんで」と一言漏らしたきり、再び口を閉ざしてしまった。
「―――……」
二人の間に張りつめた空気を感じる。
それはオレだけでなく傍にいた一彦と朔哉も同じだったようで、さっきみたいに軽口を挟むこともせずお互い顔を見合わせていた。
「ちょっと、せっかく久しぶりの再会なんだから何か話しなさいよ、律」
沈黙を破ったのは、雪乃さんの横で黙って成り行きを見ていた姉ちゃんだった。
(―――知り合い、なのか)
そんなこと今まで全然知らなかった。
それに……ただの知り合いに会っただけの反応にしては明らかに不自然というか、何か訳ありなのは一目瞭然だ。
「…………」
姉ちゃんに促されても、律は頑なに口を開こうとしない。だけど視線は決して雪乃さんから離れなかった。
オレのことなんか全く目に入っていないみたいに、雪乃さんのことだけをずっと見ている。
(なんで―――律……?)
胸の鼓動が早い。息が苦しい。
劇の時もそうだったけど、さっきみたいにドキドキワクワクするような甘いものじゃなくて、ズキズキチクチクして重苦しいものを伴った、痛いやつだ。
今何が起きているのか、さっぱりわからないけど―――心の中で渦巻いていた嫌な予感が当たっているのは、確実だった。
「あの……急にごめんね。私、律に……律と、話が、したくて」
たどたどしく、だけど懸命に言葉を紡ぐ雪乃さんに、律は無言で近づいていく。
『…………』
背を屈めた律が雪乃さんの耳元に何か囁くと、雪乃さんはホッとしたように小さく笑んで、頷いた。
そのまま退室を促すように華奢な背中に腕を回した律は、固唾を飲んで見守るギャラリーの中教室を出て行った。
あまりに突然のことで、事態が上手く把握できない。オレは茫然自失で二人が出て行った教室のドアをただじっと見つめていた。
「……う。悠ってば!」
「……っ、え?」
「なにぼーっとしてんの、もう。雪乃も律と会えたことだし、私は先に帰るから。じゃあね」
それだけ言って足早に立ち去る姉ちゃんの後を、オレは急いで追いかけた。
「ちょ、ちょっと、待って!」
教室を出たところで呼び止めると、姉ちゃんはちらっと振り返ったきり、そのまま歩き出してしまった。慌てて横に並んで一緒に歩きながら、早口で話しかける。
「雪乃さんと律って知り合いだったんだ?」
「は?なによいきなり。どうしたの」
「だって……」
雪乃さんを見つめていた律の瞳が、脳裏に焼き付いて離れない。
「お互いなんか、知ってるみたいな雰囲気だったし……」
拳を握りしめながらため息まじりに零すと、姉ちゃんから衝撃的な事実を告げられた。
「そりゃそうでしょ。付き合ってるんだから」
「―――……、は?」
(つき、あって、る?)
「だ……れと、だれ、が?」
「え?だから律と雪乃でしょ。なに、もしかして知らなかったの?」
「知らない……」
やるせない気持ちを、心の中だけで悪態をつくようにして吐き出した。
(知るわけ、ないだろ……っ、そんなの!)
律が雪乃さんと付き合ってるなんて。嘘だろ?
なんだよ、それ。本気で意味がわからない。
―――じゃああの時のキスは、なんだったんだ?
花火大会の時のキスだってそうだ。
ただの冗談だったのか?律もオレと同じ気持ちでいてくれると思っていたのに、オレが一人で勘違いしていただけ―――?
脳裏で色んなことが駆け巡る。なにがなんだか、混乱しすぎて頭の中が上手く整理できないまま、気づけばいつの間にか玄関まで来ていた。
「じゃあね」と言って校舎を出ようとする姉ちゃんを足止めするように、もう一度質問を投げかける。
「あの二人って……いつから付き合ってるの?」
「ええ?確か雪乃が律の家庭教師をしていた時だから……律が中学生の頃からだけど」
「雪乃さん、律にも家庭教師してたんだ……」
「そ。人に教えるのが上手いからね、あの子。律って理系は完璧だけど文系は結構弱いから、いい家庭教師を探しているって亜耶さんから聞いて、私が紹介したの……でもまさか、律があんなに雪乃にベタ惚れになっちゃうなんて、ちょっと予想外だったわね」
「……っ!」
さりげなく言われたひとことに、鼓動が大きく跳ね上がった。
「べ、ベタ惚れって……どういう意味?」
聞きたくないけど、聞かずにはいられない疑問を恐る恐るぶつけると、姉ちゃんからは「言葉通りよ」と簡潔な答えが返って来た。
「年齢より大人びて見えても、実年齢は中学生の年下相手に戸惑ってた雪乃を、律がかなり強引に押しまくって付き合いが始まって―――付き合ってからも、中学生らしからぬプレゼント攻撃やら電話攻撃やらまあ色々と、かなり情熱的に頑張ってたらしいわよ。それに雪乃の海外留学が決まった時なんてもう、大変だったんだから。学校やめて一緒についていくだの、駆け落ちするだのと……まあ結局は普通の遠距離恋愛で落ち着いたみたいだけど……」
「そう……だった、んだ……」
やっぱり聞かなければ良かった。
律の過去を―――雪乃さんへの想いの強さを知って、胸が締め付けられるように苦しくなる。
「あ、やだもうこんな時間?私これから用事があるからもう帰るけど、もし雪乃に会ったらあとで連絡ちょうだいって言っておいて」
「わかった……」
他にも訊きたいことがあったけれど、これ以上は引き止められなさそうだ。オレは素直に伝言を了承して、教室に引き返した。
***
「あっ、悠ちゃん待ってたよー!どこに行ってたの、探しちゃったあ、って……あれ、なんだか顔色が悪いみたいだけど、大丈夫?」
オレの不在中に教室に戻って来たらしい章太から浮かない表情を指摘される。
今は作り笑いを浮かべる気力もなくて、ただ頷くことしかできなかった。
「あのね、悠ちゃんに会いに来てる子がいるんだけど……」
「……だれ」
「入り口の所にいる、あの子」
章太の視線を辿ってドアの方へ目を向けると、こっちを伺うように見ている一人の女の子と目が合う。
一瞬どこかで見た顔だなと思ったけど、考えることを放棄した役立たずの脳では、誰なのかはっきり思い出せなかった。
力の抜けたおぼつかない足取りでドアの前まで足を進めると、花のような笑顔で迎えられる。
「すみません。お話したいことがあるんですけど……少しだけお時間いただいてもいいですか?」
「あ……はい。大丈夫ですけど……」
心ここにあらずの状態で生返事をすると、彼女は周囲を見渡しながら、
「あの……ここだと、ちょっと」
人目に付くから、と遠まわしに場所の移動を促してくる。オレは章太に「ちょっと外に出てくる」と言い残して、教室を出た。
***
人気の少ない所を求めて辿り着いた駐輪場。
対面した相手を改めて見ると、やっぱり見覚えがある気がした。
「あの―――話って、何でしょうか」
畏まって訊いたオレに、彼女は質問を質問で返してきた。
「前にここでお会いしたことがあるんですけど、覚えてますか?」
「え……」
(前に?って、いつ―――)
「―――……あ、」
おぼろげだった記憶が、ふと蘇ってくる。
(……ああ、思い出した)
この子、前に手紙をくれた聖鈴の子だ。
オレは自分の中にある記憶を全力で呼び起こした。
(ええっと、確か名前は―――)
「秋川リナさん……だよね。手紙をくれた」
「はい。連絡貰えなかったから、多分駄目なんだろうなって思ってたんですけど……でも私、諦められなくて……」
あの時の返事を直接今日聞きに来たと言われて、オレは心底感嘆した。
(凄い、な……)
駄目だと思っても、もう一度勇気を出して自分の想いを伝えてくる真摯な姿に、憧憬の念を抱かずにはいられない。
両想いかもしれないと浮かれ捲っていたくせに、実際は告白する前に失恋が決定して落ち込む事しかできないオレとは月とスッポン、雲泥の差だ。
「……ごめん。気持ちは凄い嬉しいけど……」
自分の不甲斐なさに肩を落としながら謝罪の言葉を口にすると、悔しそうな表情を隠しもせず、ストレートに訊いてくる。
「付き合っている人がいるんですか?」
「いない。でも―――」
「……好きな人は、いるんですね」
続くはずだった言葉を正確に読み取った彼女に、確信を持って先に言われてしまう。なんでわかったんだろうと不思議に思って、理由を訊いてみた。
「どうしてそう思うの?」
「なんとなく。女の勘です」
「そっか……」
オレは俯いていた顔を上げると、彼女の顔を真正面からちゃんと見た。誠意を以て返事をするために。
「うん……好きな人がいるんだ。すごく、大事な人」
(でもそれを本人に伝えることはもう、出来なくなったけど―――)
重く沈む気持ちを振り切るように、もう一度「ごめんなさいと」言って、頭を下げた。
少しの沈黙の後―――小さな声で「お時間とらせてすみませんでした」と言葉を残した彼女は、駐輪場から去って行った。
「ハア……」
大きな溜息をひとつ吐いて、空を見上げる。
なんだか今日は色々な事が一気に起こったせいで凄く疲れた。
しばらくその状態で流れる雲を見つめていると、少しだけ気分が落ち着いてくる。
(そういえば、律と雪乃さんはどうしただろう)
教室を出て行ったきり行方のわからない二人を想って、胸が痛くなる。
もうこのまま誰にも会わないで、帰りたかった。だけど現実はそうもいかないので、仕方なく教室に戻ろうとした―――その時。
「―――悠」
ふいに名前を呼ばれて視線を空から地上に向けると、律がこっちに向かって歩いてくる。
「……ッ、」
まさかここで会うとは思わなかった。
内心思いっきり動揺していると、目の前までやって来た律は、突然オレの手首を掴んできた。
(え……っ?)
そのまま歩き出そうとする律に、オレは抗うように地面に足を留めて問いかける。
「な……なんだよ、急に」
「話がある」
それだけ言って、今度はかなり強引に引っ張られた。
有無を言わさないその強さに、今度は逆らうことが出来ずに―――オレは律の背中を悄然と見つめながら、ゆっくりと歩き出した。
【ACT15】END