【ACT12】勇者の格言『口は幸いの元』

ここ最近恋に浮かれた己を馬鹿すぎてどうしようもない、と極めて謙虚に、且つ客観的な意見で以って反省していたのだけれど……思うほど、存外自分は馬鹿な人間ではなかったらしい。

「―――きた」

震える両手で一枚の薄い紙を握りしめて勝利の笑みを浮かべると、律は眺めていた己の答案用紙からオレへと視線を移した。

「……何が来たって?」

「オレの時代」

左右の口角を目一杯上げながら、さながらオリンピックで優勝した選手が表彰台でメダルを掲げるかの如く誇らしい気分で、手の中の紙きれを頭上に広げてみせた。

(イッツ、マーベラス!)

今まで毎度一桁しかお目にかかれなかった、オレの唯一の弱点、世界平和の大きな妨げという名の社会科の答案用紙。なんとそこには五十三の文字が燦燦と輝いていた。

「頑張ったね悠ちゃん、凄〜い!」

素直に賞賛の言葉を贈る章太とは対照的に、律は意外だと言わんばかりに上から目線な賛辞を述べる。

「万年一桁のお前にしては、よくやったな」

「僕なんてまた赤だよ〜それも全教科!」

「ひえ。まじか」

「まじまじ。あーもうまたレポート地獄かあ……まいったね!カズ君達は、どうだったんだろ。僕ちょっと見てくるね〜!」

五教科赤点の割には全然凹んでいなさそうな様子で一彦と朔哉の所へ向かう章太の背中を見送っていると、律がオレの手から答案を奪ってしげしげと検分するように眺めた。

「確か過去最高が二十八点だから、二倍近く点数伸ばしたのか。劇的なまでの飛躍だな」

「まっ、オレ様が本気を出せば、これくらい余裕だし!」

実は秘密の特訓をしていたことや、前日に死ぬほど予習もしたという諸々の事情はこの際全部なかったことにして、鼻高々でドヤ顔を披露するオレの頭を律はよくできましたというように撫でた。

(う、わ……っ)

頭を撫でられたことよりも、目を細めて嬉しそうに笑う顔に殊更ドキドキする。赤くなった顔を隠したくて俯くと、律が右手にしている自分の腕時計を外しているのが目に映った。

「それじゃあ頑張ったお姫様に、ご褒美を一つ」

そんな前置きをして、何故か外したそれをオレの左手首に嵌めだした。何で左手?という素朴な疑問は聞くまでもなくすぐに理由が明かされる。

「右手だと緩くて外れちゃうから、左手にするけど。いい?」

(いいっていうか、なんていうか。その前に)

「……これ何、貸してくれんの?」

着ける腕の選別よりも根本的な質問を投げかけると、予想外の否定が帰ってくる。

「いや、返さなくていい」

「えっ」

「次回からそれ使って時間配分に気をつければ、多分もっと点数取れるはずだから」

「……まさか、貰っちゃっていいとか?」

驚きつつ半信半疑で訊くと、律は笑顔で頷いた。

「凄く気に入ってるやつだから、大事に使って」

「や、それなら自分で持ってないと、駄目だろ」

しかもこれ、律が高校の入学祝い(正しくは高校の『主席入学』祝いだ)に買って貰った、いわば記念の賜物というか思い出の一品というか、とにかく一介の高校生が持つには聊か高価な物なのだ。それをはいどうぞ、サンキューベリマッチなどと簡単に受け渡しが成立してしまうのは、如何なものか。

至極当然の理由で受け取ることに難色を示していると、律は受け取る以外の選択肢が存在すること自体考えてもいなかったというような表情で、言った。

「何で駄目なんだ。お前この時計欲しいって言ってただろ?」

「そうだけど……」

試しにちょと言ってみたら、本当に幸いが転がり込んでくるなんて―――こういうの、何て言うんだっけ。『口は幸いの元』?

……って、これじゃ造語になっちゃうか。

「でもやっぱり、そんな大事な物貰っちゃ悪いし」

尚も二の足を踏むオレの耳元に顔を近づけると、律は駄目押しの一手と言わんばかりに囁いた。

「俺がお前にやりたいから……いいんだよ」

耳朶を掠めた吐息とひそめられた声音に、思わず息を呑む。

「……ッ」

こんな風に言われたら、どうしても期待してしまう。真新しいシルバーのロレックスに目を落としながら、もしかして、律はオレのこと―――なんて馬鹿なことを考えた。

(これ、オレの勘違いなのかな)

大事で、凄く気に入ってる物をくれるって、ちょっと特別っぽい気がする。多分オレが逆の立場だったら……きっと好きな人にしかあげない。律はオレが従兄弟だから、こんな風にしてくれるのかな。

それとも相手が友達でも、たとえば章太とか朔哉とか一彦でも同じように、この時計をいとも簡単に差し出すんだろうか。

(オレだから、くれるの?)

訊きたいのに、言葉が口から出てこなかった。かわりにふと思いついたことを冗談交じりに言ってみる。

「五十点そこそこで時計が貰えるなら、八十点以上取れたら、もっと凄いご褒美が出てくるんだろうな!」

「何か欲しいものでもあるのか?」

「え?……っと、」

てっきり「調子に乗るな」とでも言われるかと思っていたのに、予想外の反応を受けて咄嗟に返事に詰まってしまう。逡巡している間に「ああ、もしかして……」と何か思い当ったらしい律が訊いてきた。

「来月出るって言ってた、新作のゲームソフト?」

「あー……勿論、それも欲しいけど」

「違うのか。じゃあ、何」

オレが今一番欲しいもの。そう聞かれて、真っ先に頭に思い浮かぶのは。

「何っ、て……」

胸の中にある願いは、ただ一つだけ。

オレのことを、好きになって欲しい。オレにとってのこいつがそうであるように、オレは律の特別になりたい。友達より、従兄弟より、他の誰よりも一番傍にいられる、唯一無二の存在でありたい―――

だけどそんなの、言葉にして言えるわけないから。

(今は……まだ)

「まあ、うん。それは自分で何とかするから、いいよ」

曖昧に言葉を濁すと、律は更に追及してきた。

「……何とかするってことは、明確な『欲しいもの』がちゃんとあるわけだ」

「ある、けど……」

「それって、俺が何とかできるもの?それとも、できないものなの」

「何でそんなこと訊くんだよ」

「いいから。答えは?」

「……できる」

(っていうか、お前しかできない)

心の中だけで呟いた声がまるで聞こえたかのように「じゃあもし合格ラインまでいったら、その時は俺がそれを用意してやる」と躊躇いもなく断言する律に、オレはその言葉がどこまで本気なのか探るように訊いてみる。

「そ……んな事、簡単に言っちゃっていいの?たとえば……凄く高いものだったら、どうするんだよ」

「高くても全然いいけど。それでお前が苦手な社会を克服できるなら、どんなものでもご用意させていただきますが?」

わざとらしさ満点の恭しい口調なのに、その表情はどこまでも優しい。

―――ああ、こいつはオレをどこまでつけあがらせれば気が済むんだろう。

「……いっ、今の言葉、絶対忘れるなよ!?」

「忘れないよ」

「本当だろうな!」

「はい、はい」

「『はい』」は一回だろ!同じことを二回言う時って、実は全然話を聞いてなくて聞き流している証拠なんだって、TVで見たことがあるんだからな……っ!」

「聞き流してないよ。お前の事は、ちゃんと全部覚えてる……今も、昔も」

「……ッ……」

(だから、どうして)

そんな風に優しい顔をして、甘い声で、そんな事を言うんだ。

熱のこもった目で瞬きもせずに、オレのことをじっと見つめているんだ………これじゃあ、まるで。

(―――口説かれてるみたいじゃないか)

手の中の答案用紙を力一杯握りしめながら、沸騰した頭で本日二度目の大馬鹿なことを考える。

ああもう、これ以上目を合わせているとドキドキしすぎて息が止まってしまうかもしれない。本気でそう思うくらい、心臓が全力疾走していた。 

オレはたまらず律の視線から逃れるように俯いて、そっと目を伏せた。

 

***

 

ホームルームが終わって帰り支度をしていると、鞄を持った律がオレの席にやって来た。

「今日も遅くなるから先に帰ってて」

「わかった」

「寄り道しないで、暗くなる前に帰れよ」

「はいはい」

「ん?『はい』は一回じゃなかったっけ」

数時間前にオレが注意した事を今度は逆に律から指摘される。

「……はい」

渋々言い直すオレの頭を軽く撫でた律は「また明日な」と言って教室を出て行った。一人残されて何となくぼんやりしていると、後ろの席の章太が声を掛けてくる。

「悠ちゃん、先生は今日も例の集会?」

「うん。そう」

「じゃあ帰りは一人なんだ。寂しいね」

「……まあ、な」

二学期になってからは以前のように二人で帰ることは少なくなっていた。理由は、さっき章太が言っていた生徒会の集まりに出席しなければならないからだ。

二学期に入ってすぐに律は、西園寺高校生徒会の書記に任命された。文字通り任務を命じられたのであって、律本人が望んで生徒会役員になったわけではない。

うちの学校は生徒会役員の選出方法が少々変わっていて、中学の時とは違い立候補制の選挙ではなく教師からの推薦で決まる(県内随一の進学校と名高いだけあって、わざわざ選挙活動に時間を費やすくらいならその分を勉強に回した方がいいという方針らしい)。

選ばれる基準は、至ってシンプル。ずばり成績だ。

各学年の成績最上位者二名がそれぞれ選出され、三年生からともに一位が会長、二位が副会長の任に着き、二年生の上位二名が会計を、そして一年生の二人は書記を担当する。よって、今年度の一学年の成績最上位者の一人である律は、この規則に従って九月から生徒会の書記となった。

生徒会の会合は基本毎週金曜日に行われる。勿論それ以外でも、今回のような文化祭などの学校行事が近づくと何がしかの仕事があるらしく、最近めっきり多忙の身だ。

「先生も予備校と生徒会の仕事掛け持ちって、大変だねえ」

「あー……でも他の生徒会役員も皆、予備校だの塾だの家庭教師だの色々やってるらしいからな」

個人的なお勉強とそれ以外の課外活動、両方出来て当たり前ということか。さすがトップ校の中でも選ばれしエリート集団だなと感心する。

「そうなんだ……ねえ、もしかして悠ちゃんも、何かやってるの?」

「何かって?」

「だから、塾とか家庭教師とか」

「……えー、っと」

特技ともいえるべき驚異的な勘の良さを発揮した章太が、まだ誰にも話していない事をずばり訊いてくる。どうしてこいつは……妙な所でやたらこう鋭いんだろう。

「実は家庭教師を頼んで、勉強見て貰ってるんだ……っていっても五教科全部じゃなくて、社会だけなんだけどさ」

隠し事が苦手なのであっさり白状すると、章太はやっぱりそうかと納得したように頷いた。

「じゃあ社会の成績が急に良くなったのって、やっぱりそのおかげ?」

「だな。まさかこんなに早く結果が出るとは思わなかったけど。今日でまだ三回目だし」

夏の終わりに初めて会った時は大まかな勉強方針を話し合って、二回目から実践的に問題集をやり始めたので、事実上まだ一度しか教わっていない。なのにもう効果が出るなんて、正直驚きだ。

やっぱり苦手な物を克服する時は、無理をして自分の力だけで何とかするよりも、その分野に精通している者から助けを得た方が、遥かに効率がいいのかもしれない。

そもそも強制的にやらされないと勉強しないくせに、塾や予備校に通うのが面倒だという稚拙な理由で、頑なに第三者の介入を拒否していた事を今更ながら反省する。

「あ、今日なの?家庭教師」

「うん。毎週金曜日の七時から九時まで、二時間」

「金曜なら先生も生徒会の集まりがあるから、忙しいもんね」

「そういうこと。今日も帰ったら先に夕飯済ませて、予習しなくちゃなんだ」

「そっかあ。頑張ってね、悠ちゃん!」

「ん。じゃあまたな」

オレは激励してくれる章太に笑顔で別れを告げて、急ぎ足で教室を出た。

 

***

 

「悠。雪乃来たけど」

「あ、うん。今行く」

解いていた問題集を閉じて、答案用紙をその上に重ねる。更に筆記用具一式が入ったペンケースも一緒に一纏めにして手に持った。

準部万端でリビングへ行くと、待ち人がソファに腰かけている。

オレの家庭教師を務めて下さっている高島雪乃(たかしまゆきの)さんだ。

「どうも、こんばんは」

「こんばんは、悠生君。お邪魔してます」

雪乃さんは姉ちゃんの高校時代の同級生で、今は聖鈴大学に通う現役の女子大生だ。何でも今年の夏まで海外に留学していたらしく、うちの鬼姉とは違いこれぞまさに聖女のお嬢様という感じの人で、初対面で彼女を見た時は思わずその可憐さに見惚れてしまった。

身長百六十ちょっとのオレが見下ろせるくらい小柄で華奢な彼女は、全体的にどこもかしこも色素が薄くて儚いイメージだ。

肩まであるストレートの髪はとても綺麗な黒髪で、はっきりとした目鼻立ちの中で一際目を引く大きな瞳がどこか小動物的を彷彿とさせる。まるでお人形さんのように端正で整った顔立ちゆえ「実は私芸能人なんです」と紹介されたとしても、きっと何の違和感もなく頷いてしまうだろう。天は二物を与えずなんていう言葉がいかに偽りであるかを実感させられるというものだ。

そして外見のみならず内面も素晴らしく優秀で、さすが教育学部なだけあって教え方も大変上手い。その証拠が、今オレの手の中にある今日のテスト結果だ。

「あの。この前のテスト、今日返ってきました」

「……もしかして、また一桁だったの?」

勿論これは雪乃さんの言葉ではない。馬鹿にしたように言う姉ちゃんに、オレは自信満々な表情で居丈高に否定する。

「なわけないだろ」

「何点だったの?もしかして、三十点くらい取れた?」

期待の入り混じった顔で点数を予想する雪乃さんに、意気揚々と答案を差し出した。

「わ、凄いじゃない!」

雪乃さんはぱっと目を輝かせて喜びを露にした。一方で答案用紙を一瞥した姉ちゃんは「全然凄くないけど……以前に比べれば随分マシになったんじゃない?」と冷静に感想を述べた。

対称的な反応を目の当たりにし、まるで昼間の章太と律みたいだな……と軽いデジャブを感じる。

「マシどころか過去最高の点数だよ」

「ふーん、そう。きっと雪乃の教え方が良かったのね」

「あ、全然。私は問題集を作っただけで、悠生君が頑張ってお勉強してくれたから、ちゃんと結果が出たんだと思う」

雪乃さんはどこまでも謙虚な姿勢でオレを労ってくれる。

「いや、そんな……」

満更な気分でもなく照れ笑いをするオレを、姉ちゃんはフン、と鼻で笑っていた。行儀悪く足を組んでソファに座っている姿が不遜極まりない。まったく、このガサツで横暴な女らしさの欠片もない姉に、女神のような雪乃さんの爪の垢を煎じた茶を百杯飲ませてやりたい気分だ。同じ女性という生き物にカテゴライズされているくせに、この違い、この差は一体どこから生まれてくるのか。

「何はともあれ、成績アップしたのは喜ばしいことね。やっぱり私の人選に狂いはなかったわ」

オレの成績向上をまるで自分の手柄のように豪語している。確かに雪乃さんを紹介したのは姉ちゃんだけど、少しはオレの努力も認めて頂きたいものだ。

「……偉そうだな。何様のつもりだよ」

物凄く小さな声で呟いたのに、しっかり聞き取っていたらしい姉ちゃんに恐ろしい形相で睨まれる。

「何様?決まってるでしょ、お姉様よ」

「あーはい、そうですね。おねーさまですね」

軽く流していると、姉ちゃんはふいに真面目な顔で話題を変えてきた。

「まあ、これで一応大阪にいるお母さんも安心するんじゃないの?」

「……だといいけど」

もとはと言えば、うちの母さんのとある提案がきっかけで家庭教師を頼むことになったのだ。

実は一学期の社会の成績があまりにも酷かったため、もし今後このまま成績が上がらなかった場合は、母さん達の住む大阪へ転校させられるという話が密かに持ち上がっていた。勿論大阪へ引っ越せば律とは離れ離れになってしまう。そんなの絶対嫌だった。

とはいえ、未成年の分際であの金持ち学校の馬鹿高い授業料が払える筈もなく、住む家だって居候に毛が生えたような身分でもし追い出されてしまったら行く当てもない。

このままここに住んで西園寺に通うためには、社会科の成績アップが絶対条件だった。結果、今学期になってから猛勉強を始めたというわけだ。

「これからもせいぜい精進しなさいよ。点数が上がったっていっても、まだ合格ラインまではほど遠いんだから」

「はいはい、わかってま……はい。わかりました」

言い直したのはまた睨まれたくないというよりも、昼間律と交わした会話を思い出したからだ。

「じゃあ雪乃、あとはよろしくね」

言いたいことだけ言って気が済んだのか、姉ちゃんは自分の部屋へと退散していった。

「それじゃあ、始めましょうか」

「はい。よろしくお願いします」

空いたソファに腰かけたオレは問題集を開き、目の前に広がる問題に集中する。

大嫌いな科目だけど、律とこれからも一緒にいるためと思えば、勉強することも厭わない―――最早オレにとって『社会』は世界平和を脅かす驚異の存在ではなくなりつつあった。

恋の力とは誠に偉大なものだ。絶対に覆らないと思っていた自分の価値観や倫理を、こうもあっさりと変えてしまうのだから。

 

 

【ACT12】END

                       2014/10/27 up