(好きで、好きで、好きで―――)
何をしていても、誰といても。
どんな場所にいても、どんな時でも。
心の片隅にひっそりと存在していて、頭の何処かで常に意識している。気づけばいつの間にかその姿を目で追っていたり、他愛も無い仕草一つに、心臓が跳ね上がるようなトキメキを感じてしまったり。兎にも角にも、相手の行動、視線、言葉、その他諸々の全てが気になって仕方ない。
―――恋というものは、時にヒトを馬鹿にさせてしまう能力を持っていると思う。
(え?それはどういう意味かって?)
……えーっと。まず始めにこの『馬鹿』という、日常でそれなりに使用されているであろう比較的馴染みのある言葉、これが人に与えるイメージについて、簡単に言及してみる。
一般的に愚鈍だとか低能であるとか、あまり宜しくない響きを連想する人が多いだろう。だけど言葉の後ろに、例えば力という文字をつけてみると『馬鹿力』という新たな単語が生まれる。意味を辞書で調べると「あきれるほど強い力」と記されていて、その横には火事場の馬鹿力云々〜などの具体的な範例がいくつか挙げられている。
これは二つの単語が合わさる事によって、この言葉の持つマイナスのベクトルが見事に方向転換し、意味も大きく変わったという事だ。国語の化学反応とでもいうのかな。なかなか興味深くて、面白い現象だと思う。
(え?だからそれがどうしたって?)
……えーっと。とりあえず、話を進めます。
実は恋愛というカテゴリーに於いても、これと似たような現象が起こるらしいことを最近発見した。しかも恋愛の化学反応は国語のそれと比べて、複雑怪奇というか摩訶不思議な力を持っていて、心身にも直接影響を及ぼしてくる。その影響を言葉で端的に表現すると、恋はヒトを馬鹿にさせる、になるわけだ。
ちょっと脱線した例え話になるけど、某有名RPGゲームに登場する、その名も「メダパニ」という(ドラ○エをご存知無い方の為に一言で説明すると、敵を混乱させる力を持った呪文です)わりと低レベルで修得出来る魔法があるんだけど、あれに近い感じ。
リアルメダパニ状態。突然パニックに陥ってひたすら馬鹿になっちゃうって所が、少し似ているかなぁと。
(え?なにが言いたいのかさっぱりわからないって?)
……えーっと。とりあえず、話を戻します。
恋愛に於ける化学反応についてだけど……さっき馬鹿という言葉に力という文字を加えたように、今度は同級生で、従兄弟で、しかも同性の人間相手に『すき』という感情を加えると、果たしてどうなるか、だ。
これは非常に感覚的なものであるから、言葉で説明するのは容易なことではない。そこで、よりわかり易く解説するために『それまでなんとも思っていなかった相手のことを、ある日突然好きだと気がついた場合』を例に挙げてお話する(要するに、オレの実体験だ)。この場合、相手のことを『すき』という気持ちが加わった事によって、相手から与えられる言葉や接触が自分にとって意味のある特別なものに変わったり、その相手とただ一緒にいるだけで嬉しくて、毎日が充実しているように感じられたりする。またその反面、相手のことを変に意識しすぎて不自然な態度になってしまったり、それまで普通にしていたことが簡単に出来なくなったりも、する。
恋をした。それだけのことなのに、相手を見る目が以前とまるで変わってしまうから不思議だ。これは一体なにごとか?と自問したくなるような劇的な心情の変化に、真剣に切実に戸惑ってしまう。
(……っと、まあ、昨今のわたくしの困惑事情は今どうでもいいですね。失敬、失敬)
……えーっと。ではそろそろ、結論にいきます。
つまりオレが言いたかったのは、このように恋愛の化学反応が齎す強大な影響力によって、本来(とある一教科を除いて)優秀だった筈の人間が、まるで「メダパニ」をかけられてしまったかの如く、それはもう救いようの無い馬鹿になってしまった、ということだ(因みにその優秀だった筈の人間というのは勿論、オレのことね)。
―――以上、説明おわり。長々とご清聴有難うございました!
概ね個人的見解に偏った拙い説明の数々でございましたが、ご理解いただけたでしょうか?
いやいや全然理解不能です、しかもメダパニとかいう謎のゲーム用語でたとえられちゃっても、ピンポイントすぎて更に意味不明なんですけど、という方。
もしいらっしゃいましたら、以下に記したとある日の朝の一幕をどうぞ御覧下さいませ。この説明よりは幾分わかりやすいかと思います。
但し、惚気度数の高さが真面目に半端ない故、くれぐれも胸焼けにはご注意を。
***
洗面台の前に立ち、身を乗り出すようにして鏡をじっと覗き込む。手グシで前髪を整えながら、身なりを念入りにチェックした。
寝癖がついていないか、シャツに皺がないかを肉眼でしっかり確認してから、最後の仕上げにとりかかる。
新学期になっても変わらずオレを梃子摺らせてくれるネクタイ様が、ここでついにご登場だ。ぎこちない手つきでなんとか形にして、鏡越しに観察する。胸元に垂れ下がったそれは、規定の長さよりも明らかに短かった。
「……うーん、微妙……」
お世辞にも上々な出来栄えとは言い難い。が、この後すぐに改善されることがわかっていたので、もう一度頑張って結び直そうという健気なリベンジ精神は、無論皆無だった。
(よし、おっけーおっけー! )
軽い足取りでリビングに戻り、ソファに腰を下ろして電源を入れたまま放置していたTV画面に目を向ける。
「三十五分、か……」
落胆の色も露に零した小さな独白が、TVの音に吸い込まれるようにして掻き消されていく。この時オレの脳裏に浮かんでいたのは、律が迎えに来るまであと十分もあるということだった。以前のオレでは到底持ちえなかった、未曾有の発想だ。
本来ならこの場合は十分しかないと思うのが至極妥当で、実際一学期まではいつも四十五分ぎりぎりまで支度に手間取っていたり、律が玄関のチャイムを鳴らした時点で未だ夢の国の住人でしたなんて事もあったり(因みにこの場合は罪の無い律を道連れにして遅刻決定コースへまっしぐらだ。オレ、かなり最低)それなりに忙しなく過ごしていた。
朝の十分間というのは物凄く貴重だ。これが平常時の、例えば全校集会などで校長先生のとってもありがたい(らしい)お話を拝聴している時だとか、苦手な授業が終わるまでのラスト十分間なんて異様なまでに長く感じるのに、朝だと何故かそれが同じ十分とは思えないほど、あっという間に過ぎていく。しかしながら、その体感速度が無駄に俊敏な、限りある朝の大事な大事な時間を、だ。
今のオレは敬うどころか、むしろ邪魔だ、さっさと過ぎ去ってしまえ、くらいの傲慢極まりない心持ちで、目一杯持て余しているのだった。
……だって何を隠そう、今オレの頭の中は。
数分後訪れる予定の相手に「はやく会いたい、顔が見たい、声が聞きたい」と恥知らずな主張を繰り返す戯けた煩悩たちに、余す所なく埋め尽くされているのだから。
どうやらオレのブレーンにはお花が咲いているらしい。しかも今が満開の超見頃、二十四時間常に春爛漫状態なのだ。いやはや、全く以っておめでたい。ついでに言うと、現在九月半ばの初秋であるのに春を満喫だなんて、季節外れだ。空気が読めない、もとい季節が読めないにも程がある。なんたることか、全く以ってけしからん。
昨日も一昨日もその前もそのまた前の日も会ってるくせに、一日寝て起きるとまたすぐに会いたくなっちゃうとか。どうしようもないな、ほんと。
だけどそれは仕方がない。だって、『すき』だから。好きで好きで仕方ないから、ガラにもなくこんな馬鹿なことばかり考えてしまうのも、当然のことなのだ。至って自然な現象だ。
他人が聞いたら砂を吐きそうな甘ったるい己の思考回路(……であるという自覚はある、一応)に若干ウンザリしながら、目の前にある液晶画面を眺めた。しかし集中力が希薄なせいで内容がちっとも頭に入ってこない。ぼうっとしたまま、今日一日の天候を告げるお天気お姐さんの軽快な声を右から左へひたすら受け流しているだけだった。
地に足が着いていないというか、何となく気持ちがフワフワして落ち着かない。さっきから何度も時間を確認してしまう。それも二分間隔という、目茶苦茶短いスパンで。
(……ああまったく。好きな子と初デートの待ち合わせかっつうの。馬鹿か、オレ)
セルフツッコミを心の中で入れて、溜息を吐いた時。
ピンポーン、と待ちに待ったチャイムの音色が颯爽と耳に到来した。
***
(き、来た……っ!)
慌ててTVのリモコンを手に取り、電源をOFFにして小走りで玄関に向かう。乱れた心音を宥める為に一度大きく深呼吸をしてから、緩慢な手つきで鍵を外してドアを開けた。
「おはよう」
「お、おはよ……」
散々見慣れた顔なのに、朝顔を合わせるときは何故かいつも少しだけ緊張する。自分よりも上背のある律を下から見上げるようにして挨拶を返すと、逆に律は視線を上から下に向けて、まずオレの胸元を一瞥した。
「……なんかこれ、短くない?」
律は今日もオレのネクタイの歪さを的確に言い当ててくる。
「うん。昨日長すぎたから今日はそうならないようにと思って短めを意識してやってみたら、結果こうなった」
「極端なんだよ、お前は。何事もほどほどにやればいいのに。……ほら、こっち来い」
呼ばれて近付くと、律のシャツからふわりと甘い匂いがした。今日つけているのは律が使っている香水の中でもオレが一番好きなやつだ。爽やかだけど甘くてスパイシーな香りが、王子様と呼ばれるに相応しい秀麗な外見によく合っている。流石、モテる男というのは自分に似合うものをしっかり把握していらっしゃるものだ。
「なあなあ。ネクタイ結ぶのってさ、なんでこんなに難しいんだと思う?」
「ほぼ毎日同じ事をやっていて、ずっと上達しないでいることの方が難しくないか?」
「……む、難しくない。全然」
「……ふーん、そ。不思議だな」
シュル、という音と共に外されたネクタイが、律の手によって再び綺麗に結ばれていく。
入学当初からずっと続けられてきた、毎朝恒例の事。
好きな人に自分のネクタイを結んでもらう……このたった数秒間が今は凄く幸せで、かけがえの無い大切な時間だった。失いたくなかった。だからオレはネクタイなんて、一生上手く結べなくてもいいと本気で思っていた。
「今日テストだけど、ちゃんと予習しておいたか?」
器用に動く指先をじっと見つめながら、律の問いかけに大きく頷いた。今日は二学期になって初めてのテストだ。
「かなり、した。多分今までで一番勉強したと思う」
新学期を迎えるにあたって、オレは学業と恋愛の両分野でそれぞれ目標としている事があった。そのうちの一つが、苦手科目の克服だ。一学期の時は、こんなナンセンスな科目どんなに点数が悪くても全く勉強する気になれませんな、わはは!などと尊大に豪語していたにも関わらず、あの激しくオレとソリの合わない、学問の脅威の象徴たる例の科目を。あんなに嫌っていた、超絶苦手な社会を。何故勉強する気になったのかという理由はひとまずさておき、この日のために夏休みから超気合を入れて勉学に勤しんできたのだ。
目指せ社会科、脱一桁!(目標設定が低すぎるというツッコミは無しの方向でお願いします)。
ちなみに恋愛面での目標はというと。
……まあ、こっちは態々説明せずとも何となくわかると思うので、またの機会にでも。
***
「はい、完成」
納得のいく形に仕上がったネクタイを満足そうに眺めた律は「じゃあ今回のテストは、結構自信あるんだ?」と片眉を上げるようにして訊いてくる。
「当然。今までとはぜんっぜん違うから!」
オレは今日のテストの意気込みを高らかに宣言した。いつになく強気な発言に、律は一瞬意外そうな顔をして、
「へえ〜……それはそれは。何点取れるのか今から楽しみだな」
まだ結果が出てないにも関わらず『よく頑張りました』とでもいう様に、オレの頭をくしゃりと撫でて、微笑んだ。
(あ……これってもしかして、褒められた……のかな?)
惜しげもなく注がれる優しい眼差しに、思わず目が奪われる。
嬉しさと恥ずかしさ、二つの感情が同時にじわじわと襲ってきて、頬にも自然熱がこもった。照れ隠しをするように地面に顔を向けると、律は何を思ったのか、頭上に乗せていた指でオレの髪の毛を数本掴んで、痛くない程度に軽く引っ張ってきた。
ツンツン、ツンツン。
「な……んだよ……?」
「んー?別に。なんでもないけど?」
ツンツン、ツンツン、ツンツンツン。
「…………」
(くそう……か、顔が熱い)
心臓も、ドキドキする。なんでもないというのなら、この行動はいったい、なんなのでしょうか……
最近律はこういった意味の無い(なんでもない、というのだから深い意味は当然ないのだろう)スキンシップの一環のようなものをやたら頻繁にしかけてくる。勿論好きな相手だから嬉しいけど……同時に少し困ってもいた。
なぜならそういう時(今もまさにそうなんだけど)すべからくオレ達二人の周囲を平和に漂っていた空気がまるで魔法をかけられてしまったように、一瞬にして恐ろしいほど甘くなるのだ。そしてその妙な雰囲気に一度中てられてしまうと、もう駄目だ。なんていうか、こう、居た堪れないというか、本当に恥ずかしくなってしまって、思わずその場から逃げ出したい衝動に駆られてしまう。自分の気持ちを自覚してからというもの、オレも大概律に対してあからさまに好意的なオーラが出ちゃっていると思うんだけど。こいつはこいつで、あれ?これってもしかして、もしかするのか?なんていう態度を随所に見せてきたりするから……勘違いも甚だしい馬鹿な期待に、勝手に胸を膨らませて、いつも律の事で頭が一杯になってしまう。そして冷静さを欠いたオレの思考は益々混乱迷走して、どんどん馬鹿になっていくんだ。
***
「…………」
無言で律の顔を下から窺うように覗き見ると、王子様は未だ口元に淡い笑みを残したまま、謎の奇行『髪の毛ツンツン』を楽しそうに続けていた。
暫くして髪を引っ張ることに飽きたのか、今度は指全体で感触を確かめるように、緩やかにオレの髪を梳いてくる。
(えーもう、今度はなんですか……ど、どうしたらいいの、オレ?)
甘やかすように優しく触れてくる指の感触がとても心地良いから、止めろとも言えず、手を振り払うことも出来ない。さっきから漂う空気が妙にあまったるくて、眩暈がしそうだ。
ここで、或る一つの推測をしてみる。
勿論只の推測(……というか、妄想に近いかもしれない)なので、現実には絶対に有りえないIF前提でのお話なんだけど。
人間の気持ちが空気に感染したとして、それを色で確認出来るとしたら。今オレ達の周りの空気はきっと、目を見張るような鮮やかな桃色に染まっているに違いない。桃色。ピンク。別名薔薇色とも呼ばれるそれは、ふわふわと甘くてキラキラ輝いている、希望に満ちた恋の色だ。浮かれまくっている今のオレにピッタリじゃないですか。
(……って、朝っぱらからまたオレは、何をおかしなこと考えているんだ)
馬鹿すぎる自分の残念な脳に脱力していると、ふいに律は指で梳いていたオレの髪を右耳にかけて、背を屈めてきた。え、なに、と問う間も無く、露になった耳朶にそっと唇を寄せてくる。
「お前の髪、サラサラですごいやわらかい。ねこっ毛っていいな」
笑みを含んだ声で耳元に甘く囁かれて、かぁっと身体が熱くなる。更に律は「それに、いい匂いがする」と言って、鼻を摺り寄せるようにしてオレのつむじに顔を近づけてきた。
(わっ。ちょ、ちょっと……!)
反射的に後ろへ下がろうと身じろいだら、律は逃げるな、という風に首筋に手を添えて、オレの動きを穏やかに制止させた。
***
「あ………」
不意打ちの接触に驚き固まっていると、律の指が頚動脈の上を辿るようにして肌に優しく触れてくる。意味深な指の動きに心がざわめき、胸がズキリと甘やかに疼いた。鼓動を刻む音がものすごい勢いで加速している。我が心臓ながら反応が正直すぎて、恥ずかしい。
ドキドキドキドキ。ドキドキドキドキ。しばらくずっと、以下同文。
首筋に触れている指がやけに熱く感じられて、殊更強く律を意識してしまう。何だか空気中の酸素の数が急激に減ったような気がした。だって軽く呼吸困難に陥ってるし、今。
ドキドキドキドキ。ドキドキドキドキ。繰り返しずっと、以下同文。
(……さっきから心臓の音ウルサイな。おい、ちょっと静かにしてくれよ!)
心の中で罪の無い臓器の一部に苦情を呈してみるものの、望むような反応など無論返してはくれない。引き続きドキドキドキドキ動機息切れ絶賛遂行中だ。
持ち主の命令を頑なに拒絶する頑固なこいつを少しでも戒めてやろうと、胸の左側をぎゅっと強く押さえつけてみたが、痛いだけで何の効果も得られなかった。
結局オレの心臓はまたドキドキドキ。ドキドキドキドキドキドキっていつまで続くんだコレ?いい加減に鎮まれって、この野郎!
オレの心臓ってやつはオレの身体の一部のくせになんでオレの言うこと全然きかねーんだ、もしかして反抗期か?!……どうでもいいけど、今度は耳の方まで熱くなってきたし。確実に今、顔とお揃いの色になっている気がするんですけど。
(やばい、どうしよう……絶対に赤くなってるし!)
非常にまずい展開になってきたので、前言を速攻で撤回させて頂く。やっぱり全然どうでもよくない。だってこれじゃあ、今まで俯いて顔を隠していた意味がまるでない。慎ましやかなオレの努力が、全て水の泡になっちゃうじゃないか!
(あーもう、駄目だ!)
それもこれも皆全部、律の手がオレからずっと離れないのが悪い。意味も無く首筋を撫でてきたり、髪の毛を触ってみたり……しかも触るだけならまだしも、に……匂いを、か、嗅いだりとか、しっ、してくるから!
(律のアホ!馬鹿!無神経なタラシ王子め!目茶苦茶ドキドキするんだよ、ちくしょう!)
オレの頭がこんなに馬鹿で変になっちゃったのは、全部お前のせいだからな―――!と、心中罵倒の限りを尽くして責任転嫁してみた所で、現状が変わるわけでもない。
今はこの恐ろしくメダパニックになった頭を、早急に迅速に速やかに―――ってあれ?よく考えたらこれ、全部同じ意味じゃね?
……まあいいや、とにかく落ち着かせることが必要だ。
「こ、今回のテストだけどさ。万が一オレが、社会でいい点取ったりしたら、おっ、お前の総合一位の座が危うくなっちゃったりして!」
話題転換を狙って、会話の内容をひとまず髪の毛からテストに戻してみる。若干声が上擦ってしまうのはこの際仕方がないだろう。
「ああ……お前いつも社会のせいで総合の順位下がってたからな。確かにほかの科目と同じくらい点数取れれば、一位になれるかも」
「やっぱり!?……あ、でもずっとトップを守ってきたお前が二位に甘んじるなんて、屈辱だよな?」
律をそろりと見上げて訊くと、思いがけない回答が来た。
「うん。でも、お前ならいい」
「え?」
「他の奴に負けるのは絶対嫌だけど……お前にだったら、いいよ」
そう言って律は意味深な笑みを口元に乗せながら、首に回した手でオレの襟足を再びツンツン、と引っ張った。
「……あ、え……そっ、か……」
ホカノヤツハダメダケド、オレダッタラ、イインダ。
(人一倍負けず嫌いのくせに。負けてもいいなんて、それって、なんかさ……)
胸のうちを甘酸っぱい疼きが走る。これは恐らく、期待という感情だ。律の中で自分の存在が他の人間よりも少しだけ優位に立っているかもしれないという、浅ましい利己的な喜びを感じてしまう。
うっかりにやけてしまいそうになる顔を、唇を硬く引き結んで平常を必死に装った。だけどそんなオレの努力を悉く粉砕するように、
「総合一位よりもお前の方が大事だから、俺」
―――だから負けても、別にかまわない。
とびっきりの甘い笑顔で、真っ直ぐ目を見つめながら、恥ずかしげも無く断言してくださるものだから。
「……ッ」
なんかもう、胸がドキドキするのを通り越してズキズキしてきた。たかがこの程度の事が、心臓が痛くなるほど嬉しいだなんて、本当にオレは馬鹿だ。どうかしている。
……多分この言葉にだって、深い意味は無い。
オレなら負けてもいいとか、大事だからなんていうのは、オレが律の従兄弟でいわば血の繋がった身内だから。他人よりも近くにいるから。そういう、単純な理由に決まっている。
それでも『お前は特別だから』と言われた気がしてしまうのは、きっと救いようのない馬鹿になり果てたオレの、都合の良い妄想の成せる業なのだろう。
―――これはどうしようもない、恋の病だ。
相手の言動に一喜一憂しては、心がドキドキ、ワクワク、ソワソワ、身体中がじわりと熱くなって、時に胸がズキズキ、チクチク、ギュウギュウ、押しつぶされそうに痛くなって、苦しくなる。心の奥に隠していた感情を惜しげもなく暴き出して、縦横無尽に振り回す、時にやっかいで性質の悪い、まるで魔法のように不思議な力を持った偉大なるもの。
そんな大層なものに嵌ってしまったおかげで、空気が桃色に見えて仕方ない、今日この頃。
オレは今、恥ずかしいくらい馬鹿みたいに、夢中で恋をしています。
【ACT11】END