「うわあ、やばー……」
「って、どれ?……ああ、またヒトケタか」
「ちょっ……勝手に見んなよ、人の答案!」
自分よりも頭二つ分ほど背の高い痩躯から、一見しただけで無残な結果が窺い知れてしまうテスト用紙を奪い返して、再度目を落とす。しかしながら、何度眺めてみてもそこに書いてある点数が変わる事はない。
心の中だけでそっと一人、両手を合わせる。
―――はい、合掌。
県内屈指と名高い私立西園寺(さいおんじ)高校では、毎月五日、十五日、二十五日の三度に渡って行われる、学力診断テストがある。
それらは毎回、五教科全ての科目でそれぞれ八十点以上取れなかった場合、補習課題として一科目二十枚のレポートを提出しなければならない。
開校以来、有名私立大学や日本国の頂点、泣く子も黙る某国立大学に、毎年数多の現役合格者を輩出している超名門、我らが西園寺高校のテストで八十点を取るのは、中々容易な事ではない。
従って、殆どの生徒が何らかの苦手教科でレポート提出を余儀無くされ、最悪五教科全て合格点に満たなかった場合は、合計百ページにも及ぶレポートを僅か三日で仕上げるという別名『三日間貫徹コースの旅』にもれなく招待される事となる。中間や期末などの大きなテストと違って内申書や通知表に直接関わらないからまあ、いっか!などと考える、進学校らしからぬ一部の不届き者の生徒からすれば、面倒な事この上ない。
その、ごく一部の不届き者に該当するオレの成績はどうなのかというと、得意科目である国語、英語、理科はほぼ毎回お決まりの満点だった。
対して数学は、若干ケアレスミスや簡単な計算間違いがあったものの、八十点のボーダーラインは余裕で超えている。
(さすが、オレ。今回も大変優秀で誠に素晴らしいですな!)
心の中でガッツポーズあーんど拍手喝采自画自賛しつつ、赤マルばかりの答案とは真逆の、先程掌サイズの塵と化した物体が鞄の底にひっそりと存在している事は、忘却の彼方へ押しやった。
私立西園寺高校1年5組出席番号11番、オレ、小原悠生(こはらゆうき)は基本的に好き嫌いの激しい人間だった。
好きなものにはとことん嵌るし、どんな些細な事でも興味を示す。例えば、いいなと思った作家の本は長編短編番外編シリーズ全てを余すことなく買い集める作家買いをするし、面白いと夢中になったTVゲームは、夕方からやり始めて気がついたら次の日の朝でした、なんて日常お茶の仕事だ。
逆に、嫌いなものには欠片ほどの関心さえ持ち合わせる事をしない。興味の無い物、又は無い者に対しては、自分というフリーダム且つグローバルな、まあ有体な日本語に訳すと「じゆうではてしなくひろい」世界から存在自体を一切合切、抹殺してしまうからだ(要は嫌いなものは見ない、聞かない、触らない、という事)。
それは学校の勉強においても例外ではなく、やっぱり自分が好きだと思う教科は頑張って勉強しなくても、勝手に頭に入ってくるというか、やっていて違和感がないのである。
特に国語と英語は常に「言葉」や「文章」と深く関係があるものだから、無類の本好き(ただし、興味のあるもの限定)であるオレからすれば一番興味深い科目ということだ。つまり、自分はどちらかといえば、文系の方が得意なんだと思う。
じゃあ理系は嫌いかといえばそんな事は無く、むしろ理科なんかは国・英に負けず劣らず大好きだ。
満点を取ったことはまだ一度も無い数学だって、多少細かい計算が面倒だとは思うけど、難解な文章を解いたり色々な形の図形問題を解くことは、バラバラだったパズルのピースを一つずつ当て嵌めて完成させていく面白さに似ていて、中々楽しかったりする。
もしもこの世の中が、国数英理の四教科だけで成り立つものだったのなら、オレはきっとかなりの高確率で、今よりも遥かにお気楽な人生が送れていたのではないだろうか。
しかしそんなに全てが順風満帆にいくわけが無く、好きなものがあれば当然嫌いなものがある事然り。表があれば裏があり、長所があれば同時に短所だって存在するのも、これまた然り。
自分の中では決して認めていなくても外の世界では『ソレ』の存在があるからこそ、成り立つものが数多くあるらしい。……ハァ。
ちなみにその大嫌い、な見るのもウンザリする不得意科目の『ソレ』は、たったの八点だった。まあいつもの事だけど。……ハァ。
「毎回よく懲りずに、社会だけこんなに大量のバッテンを貰えるもんだな、悠。逆に凄い」
呆れ顔でそう言って、オレの生まれつき色素の薄い髪をクシャクシャにしたこいつは、安齋律(あんざいりつ)という。同級生にして同じクラス、ついでにいとこだったりする。
「そ。マルばっかりだと面白くないから!答案にだって多少の個性がありませんと、ね!」
オレは悔し紛れ半分開き直り半分で、支離滅裂な事を言い返してみる。一桁なんて点数、むしろ取るのは至難の業だ!(全然自慢にならないけど……)
「個性ねえ……確かに真似できない上、際立って目立っている事は認めるけど。俺の答案はそれに比べると、絵に描いたような『どんぐりのせいくらべ』だな。みんな似たり寄ったりで、全く個性が無い」
「その通り。お前のは無個性すぎる、実につまらない」
個性が無い。とはすなわち、欠点が無いという事だ。
律はオレのように、というか世間一般の人間がごく当たり前にある欠点だとか苦手なものが、勉強においては殆ど見られない。一応、理系が得意だから国語はあまり好きじゃないって言ってるけど、それでも九十点より下の点数を取っているのを未だかつて見た事がない。英社にしても以下同文。
あーあ、流石ですね、学年主席サマは!
「それにしても、お前は」
溜息を零した律は、窘めるようにオレの頭をコツンと軽く小突いた。
「何で出来ないってわかってて、勉強しないの。社会なんて一番楽だろ。覚えるだけなんだから」
「興味無い事は頭に入ってこないんです。オレ様の優秀な頭脳は。嫌いなものウィルス菌完全シャットアウトシェルター内蔵なもんで」
「はあ?何だそれは。お前の記憶力は核兵器お断り条約でも交わしてるのか」
核兵器……まさにオレにとってぴったりの言葉だ。
社会科という、オレ一個人の世界平和を脅かす脅威の存在。まったく。
勉学の世界にも『非核三原則』有り、だ。
「なになに〜?君達、早速社会の復習やっちゃってんのお?まぜてまぜてー」
オレと律が学問の世界平和について論議していると、間延びした舌足らずな喋り声が会話に加わってきた。
「どれどれ、ちょっと拝見!」
そう言って、後ろの席からオレ達の間に身体を割り込ませるようにして律のどんぐりモドキの答案を奪ったのは、出席番号12番、高橋章太(たかはししょうた)だった。
「あれま、毎度素晴らしい点数ですことー。僕、今回も旅に出るから、律せんせいの模範解答が是非とも欲しいのね〜」
律の答案を称賛しながら噛み締めるように零した章太は、眉をハの字にしてヘラッと笑っている。
旅にでる……って事は。また、こいつは。可哀想に五教科全部アウトだったのか。
「またか。最近当たりがないから、今回こそきた≠ゥと思ったのに」
律の呟きに章太は両手を挙げて、肩を竦めながら降参のポーズを取ると、
「もうそろそろくる″なんだけどねえ。 残念な事にまだ、だったのよ」
やっぱりヘラッと笑って、五枚の答案をオレたちの目の前にヒラヒラと翳した。うーん、見事に全部バツだらけ。
勝ったね!(社会以外は)……ただ、こいつの場合いつも悪いとは限らないのだ。侮れない奴。
章太は、西園寺のあるW市の隣のN市から来ているので、オレとも律とも違う中学出身だ。
出席番号同様、名前のあいうえお順で決まる席がオレの後ろだった事がきっかけで、その、何となく気づいたら仲良しになっていて、何となく気づいたらお友達になっていた、という。
「悠ちゃんは、社会どうだったぁ?」
どうもしませ〜ん、いつもどおりで〜す。努めて明るく答えを返したオレは、さり気なく話題を元に戻した。
「あれ、前回きた≠フって、いつだったっけ?」
「んー……この前の、前の前の、そのまた前だから〜彼此、一ヵ月半ほど前じゃないでしょうか!」
うわあ。ってことは、四回連続御旅行ですか……お気の毒。
でも、大して気にもしてなさそうな章太は、愛用しているゼブラの赤ペンを筆箱から取り出すと『律せんせい』の答案を使って慣れた手つきで添削し始めた。
通称、天職赤ペン先生。ばーい○研ゼミ。
こいつはなんていうか、オレと同類で……いや待て、違うな。部分的に似ているのかもしれないけど、オレよりも更に極端で、しかも予測不可能だ。
章太は、とにかく波が激しい。調子が良い時と悪い時の差が半端なくて、悪い時はまあ、今回みたいに全滅パターンが殆どなんだけど(とはいえ流石にオレみたく一桁とかいうのはない。いつも平均四十くらいは取っている)。
逆に良い時は、五教科全部パーフェクトに近い点を叩き出し、毎回総合トップの律には及ばないものの、総合BEST5には楽勝で入ってくる。
不定期らしいけど、大体三回から四回に一度、その良い時の波がくる≠ニの事。あまりにも差があり過ぎて、始めはわざと狙ってやってんのかな?こいつ。と思った。自分の事は棚に上げて。
『いつも真面目にやれば毎回いい点取れるんじゃないの?』
以前そう聞いてみたら、本人曰く勉強したから出来るというものでも無くて、まるで天啓のように突然、知識の神様が何処からともなく降臨するらしい。……そんな神様が本当にいるんだったら、是非とも社会の時間だけオレの所にも来て頂きたいものだ。
よく『バカとテンサイはカミヒトエ!』とか『ノウあるタカはツメヲカクス!』って言うけど、こいつがまさにソレなんじゃないか、と。一見ヘラヘラしてて、かなり馬鹿そうにみえるけど、
実は凄い才能を秘めている天才的頭脳の持ち主なのでは、と密かにオレは思っている(概ね、天才と謳われる人、たとえば偉大な発明家とか有名な音楽家って、変人が多いって話だし)。
……だけどそんな風にオレが章太の事を、内心で高く評価しているなんて知ったら、多分大喜びして調子に乗るから、絶対本人には言ってやらないけど!
「……なぁ、章太。これ」
「んん?なぁに〜?」
章太の答案用紙をやたら熱心に見ていた律が突然神妙な面持ちになって、俄かに信じ難い、あまりにも馬鹿すぎる世紀の大発見をオレ達に掲示した。
「この数学の答案用紙の名前の欄」
律の指先で示された場所に注目すると、そこには。
【1年5組12番 高橋章犬】
「…………」
「…………」
「……ありゃ?」
―――章犬。……い、いぬ?
「あはは〜、自分の名前間違えちゃった。ま、こういう事も、たまにはあるよねっ!」
(―――あるわけねーだろ!アホか!)
「お前よくこの学校受かったな、それで」
た、確かに。律の尤もなご意見に思わずオレも頷く。
「うん。僕今まで、受験とか、年度末テストとか、全国一斉模擬試験とか、大舞台は何故か外したことがないんだよねー。本番に強いっていうの?えへ!」
ああ……いるよなぁ、こういうやたら悪運の強い奴って。 律もそのタイプだし。でも、だからといって受験の時に本当にきてくれるのかわからん気まぐれな神様とやらを信じて、こんな難易度最高レベルの所を受けるって……ギャンブラーな人生歩んでるなあ。ちょっとうらやましいかも。
「それにしても、章太クン」
「どうでもいいけど、お前さ」
「ん?」
「「自分の名前くらいきちんと書きなさい」」
オレと律が綺麗にハモッた。さすがいとこ同士。以心伝心息ピッタリ!
「あ、でもショウケン≠チてショウタ≠謔濶スかこう、響きがいーよね。たかはし、しょうけん。俳優さんみたいで格好良くね?っていう!」
いや、そこで同意を求められましても……だってイヌだよ、犬!それに俳優っていうより、どこぞの大手証券会社の名前みたいですョ、ソレ。
「これを機会にちょっと改名しちゃおっかな!字画変わると、運勢も変わるっていうしー」
えっ、運勢変えたいのか?今だってじゅーぶん……いや、十二分に運いいじゃん。この贅沢者め!
「太≠ナも犬≠ナも字画は変わんないだろ……」
「一・二・三・四……あ。ほんとだ!意味ないねっ!」
律せんせいの鋭いツッコミが入り、ショウケンさん撃沈。
―――前言撤回。やっぱり、ただの馬鹿なのかも……
【ACT1】END