「またいつか絶対に会おうね。それまで僕の事、忘れちゃだめだよ?」
―――――やくそく。
声を震わせながらそう言って、瞳に透明な雫を溜めながら、何度も何度も確かめるように指きりを繰り返していた、アイツ。
弱虫の典型みたいな奴で、いつもなにかあるとすぐに大泣きしては周囲を困らせていたくせに、この時だけはぐっと唇をかみ締めて、必死で涙を堪えていた。
是が非でも泣こうとしないアイツとは対照的に、オレは物心ついてから始めて人様(血の繋がった身内を覗く)の前で、不覚にも大泣きしてしまった。
元来の強気な性格のおかげで、他人の前で涙をみせるなんて(しかも盛大な号泣だ)みっともない真似をしたことのなかった、このオレが。
最後なんだから笑顔で見送ってやらなきゃと思っていた。それなのに別れが目前に迫った瞬間、やっぱり辛くて、どうしようもなく悲しくなってしまって、胸が痛くて堪らなかった。
前日の夜から寝ずに考えていた『年上らしくクールにお見送りをする、格好良い兄貴なオレ』なんて一つも見せられずに、オレはただ泣き崩れた。
「わすれ、ないっ……絶対に、お、おぼ、覚えてるから、お前のこと…!」
目から溢れ出した大量のH2Oが、滂沱とオレの頬を濡らしていく。
うっかりナイアガラの滝状態に陥ってしまった涙腺を叱咤激励しながら、オレはそのときの精一杯の思いをこめて、そんな返答を餞別代りに贈呈したのだった。
しかしながら子どもの頃の約束ほど、当てにならないものはない。
またいつか≠ネんて、宝くじの一等が当たるよりも現実味のない、幻想の未来だ。
その時確かに存在していたはずの情熱は、いつしか過ぎ行く時と共に影を潜め、風化し、在りし日の美しい思い出へと変わってゆく。
……それがいわば、世の常というもの。
握り締められた指の強さも、最後まで頑なに泣き顔を見せず、オレの姿を網膜に焼き付けるようにじっと見つめていたことも、不確かで曖昧な、幼い約束も全部……記憶の中の奥深く、青春のメモリアルに厳かに刻まれて、忘却の彼方へと葬り去られた。
……まあその、なんていうか結局の所、綺麗さっぱり忘れていたのだ。
アイツが再びオレの前に現れた―――――今日、この日までは。
【 無限大エンドレスリピート 】
なんだか朝から女子が騒がしい。
どことなく浮き足立っているというか、全体的にそわそわしているとういか。
皆一様に落ち着きが欠けている気がする。
朝のホームルーム直前。オレは机に頬杖をついて、頬を紅潮させながらひそひそと小声で何事かを囁きあってはしゃいでいる彼女たちを傍観していた。
オレたち男からしてみたら、女の子というのは常に意味の無い事できゃぴきゃぴわいわい、いったい何がそんなに楽しいのか、やんごとなき事で大騒ぎ出来てしまう生き物だ。だから今日のこの騒がしさだって、きっと平素の事柄なのだろう。
……とは思いつつ、
「なあなあ周平、今日ってなんかあるの?」
オレの後ろの席で熱心に雑誌を読んでいる、親友の周平に問いかけてみた。
「なんかって、なにが。なんで?」
……あれ。どうやらこいつ、教室内に漂うこの異様な熱気に全く気づいてなかったらしい。
さすがはB型、マイペース人間。
手元の本から一切目線を外すことなく、何のことかと逆に訊かれてしまった。
「やー…、今日やたら女子の皆様が元気じゃない?何か素敵なことでもあったかな〜と思いまして…」
「女子が元気なのはいつもの事でしょ。……あ〜、でも今日はいつも以上かも。なんでも転校生が来るらしいから」
え、そうなんだ!……うーんなる程、それで皆様いつもよりテンション高めなわけですか。
突然舞い降りた興味深い話題に意気揚々とし、オレは周平の机に身を乗り出すようにして、質問を投げかける。
「で、それはなに、うちのクラスにって事?どんなやつだよ。おとこ、おんな?!」
「うちのクラスっていうか、1年。アメリカから引っ越してきたやつらしい。ちなみに日本人で、男」
高揚しかけていた気分が一瞬にして急降下。
最後の一言を聞いた瞬間、オレは思わずがっくりと大げさに肩を落とした。
チッ、な〜んだ男かよ、つまんねェ……!
「しっかし、1年生相手に何でこんなに大騒ぎしてんの?女子校でもあるまいし」
うちの学校は男女共学の普通科オンリー。よって、男女の比率も丁度半々だ。
「女子校だったら、そもそも男の転校生はありえません。…1年だけどかなりのイケメンらしいよ。背ェ高くて、英語ペラペラだって。しかもうちの学校の転入試験に受かるくらいだから、それなりに他の教科も出来るんだろうしな」
「はあ〜…それでやたら盛り上がっちゃってるわけね……」
オレらの在籍する泉が丘(いずみがおか)高校は、公立ながらもこの辺りでは私立の超名門である西園寺(さいおんじ)高校と並んで有名な進学校だ。
通常の入学試験だって結構なレベルだけど、途中からの編入試験では更に難易度が高くなるって噂だ。
それをパスしたってことは、周平の言うとおり勉強方面でも出来がよい奴なのだろう。
頭良くて顔も良くて英語がしゃべれて背が高いって。どんだけ恵まれてんの、そいつ。
それはそれは、今迄さぞかし楽しい人生を歩んできたんでしょうねえ、いやはや、実に羨ましい。
これといって特に人様に胸をはっていえる様な取りえの一つも無い、平々凡々とした十七年間を黙々と過ごしてきた地味なわたくしとは、大違いです事。
少しだけやさぐれた気分で、顔も見たことの無い転校生を至極理不尽に羨やみつつも。
…でもまあ、うちのクラスにくるわけじゃないし、年下だし。おまけに男だし(ここが最重要ポイント)どうでもいいか、別に――――……
自分には全く関係の無い話だな、と、早々にこの話題から関心を失いつつあった。
色めきだっている教室を見渡しながら、大きな欠伸を一つする。
ついでに腕時計見ると、時刻は8時13分だった。
ホームルームまであと15分てとこか。ちょっとだけなら、寝られるかな。
オレは微々たる休息を得ようと、周平に背を向けて机に突っ伏した。
「おい、那智。なーちー」
しかし睡眠モードに突入してから1分も経たない内に、無粋な呼び声に安眠を妨害される。
「んん〜?なに…寝てるんですけどオレ、話しかけるなよ…」
「寝ているやつは返事しないっしょ。お前、数学の宿題ちゃんとやってきたか?確か今日あたるんじゃなかったっけ」
ぎゃ、そうだった、宿題やってねえ…!
いつものことだけど!
がばりと顔を上げ、早々に起床。黒板の横にある時間割を慌てて見る。――――げ。
「数学1時間目!?うっわ、今からやっても間に合わねェし。……周平くーんお願い、ノート見せて!」
「ちょっと、またですか。んじゃ昼にバターバンズ2個、ね」
「それこそ、また!?お前ほんとそればっかだな〜。月末だから財政事情マジ厳しいんだよ、せめてバターバンズ1個にしてくれ」
「駄目。相応の報酬が用意出来ないなら、自力でやれ」
「そんな御無体な!オマエはそれでも本当に親友なのか、十年来の幼馴染のくせに!薄情な奴め…!」
現時点において――――次の授業の事で頭が一杯だったオレは、学校中の女子達の熱烈な注目と過剰な期待を一身に背負った、インターナショナルイケメン秀才転校生(名前がわからないので勝手に命名)とやらについて、既に9割がたの興味を失っていた。
しかしこの数時間後、その話題のスーパー転校生があまりにも意外な人物と知り、関係ないどころの話ではなくなってしまうのだけれど。
***
困難な要求を泣く泣く呑んで、なんとか数学の授業を乗り切った、本日の放課後。
「なんか腹減ったー。周平、帰りにマック寄っていこうぜ!」
「あ、オレ今日バイトあるから、パス」
「ええーっ、なんだよも〜」
ビッグマック奢らせて今日の昼飯代、チャラにしてやろうと思ったのに!
授業中密かに画策していた『バターバンズ代金奪還計画』に早くも失敗したオレは、軽い失意を胸に抱えながら教科書をショルダーバッグの中に詰め込んだ。
「ちぇ〜、んじゃ今日はまっすぐ帰ろっかなあ」
「マックは?腹減ってんじゃなかったのかよ」
「だって金ねえもん。誰かさんがバターバンズ2個も買わせるから、オレのお財布が寒くて風邪ひいちゃったんですー」
世間では悪質なインフルエンザが大流行してますからね、オレらも気をつけないと。
不貞腐れながら教科書の詰まったバッグを首にかけようとしたその時、後ろから「きゃああ〜っ!!」と女子達の黄色い悲鳴が耳に入ってきた。
「な、なんだ…?」
何事かと思わず振り向くと、教室の後方の扉に人だかりが出来ている。見事に女子限定で。
「やーん、超格好いい〜っ!ねえねえ、誰に会いに来たの?」
「名前なんていうのー?身長何センチ?彼女いる?」
入り口付近で、宛ら芸能人に群がるリポーターのような活気溢れる女子の集団に、どこぞの誰かが捕まっているらしかった。
目を瞬かせながらその様子を見ていると、輪の後方から「あのすみません、先輩方。ちょっとそこ通してもらえます?」と柔らかい声が聞こえてきた。
「…なんなのあれ。誰だよ?」
「知らん。例の転校生なんじゃないの、もしかして」
「へえ〜1年が転校初日に上級生の教室来るなんて、勇気あるじゃん」
どんなヤツか見てみたい気もするけど、今はとても無理そうだ。少しだけ後ろ髪を引かれる思いで、じゃあ帰りますか、と周平と二人で前の扉から教室を出た。
「―――待って、なっちゃん!」
「…………っ!?」
教室を出て玄関に向かう途中、突然後ろから凄い力で腕を掴まれて、引っ張られた。
は、え……ええっ!?
あまりに唐突でしかも一瞬の出来事だったので、暫しの間己の身に何が起きたのか理解できなかった。
たまたまオレ達の近くにいた数人の女子達の、きゃああああ――っという劈くような悲鳴(というか、もうこのレベルまでくると最早雄叫びだ)でようやく我にかえる。
さっきまで廊下の続く見慣れた校内の景色が目に映っていたはずなのに、気づけば制服の紺色が眼前一面に広がっていた。なんでだ。
「……………」
自問して、すぐに答えは出た。
それは、掴まれた腕ごと身体の向きを180度反転させられたオレが、自分よりも10センチ近く上背のありそうな見知らぬ男に……なんと、抱きしめられていたからだ。
―――ちょっと、なんだよ、これ!?
なにしてんだこいつ……!
慌てふためき、相手の腕を引き剥がそうとするものの、一回り以上身体の大きなヤツにこうもがっちりと拘束されていたんじゃあ、腕ひとつ満足に動かせやしない。
唯一自由になるのは、口だけだった。
「は、離せって、こら!なんなんだよ、おまえ…っ!」
残された最後の武器を最大限に活用するべく、至近距離で思いっきり怒鳴りつけてやると、一瞬相手の腕の力が緩んだ。
背中に回されていた手がオレの両肩を掴み、身体を離されて、ようやく相手の顔が視界に入ってくる。
……っわ、これはまた。
なんていうか……女子が騒ぐのも当然だな。
自分を突然拘束してきた謎の男は、いわゆる文句のつけどころがない完璧な、イケメン、だった。
ガテン系の男らしさというより、どちらかというと今流行りの草食系な雰囲気の漂う、爽やかな男前。少し下がり気味の目が優しそうな印象を与える、いかにも女の子受けしそうな顔だ。
明るすぎず暗すぎない綺麗な薄茶色の髪も、その甘い顔立ちにとても良く似合っている。
こんな時になんだけれど、相手のはっと目を引くような端正な容貌に、オレは迂闊にも見惚れてしまっていた。
つい視線が離せずに、相手の顔を思う存分堪能しまくっていたオレに、イケメンは囁くような小さな声で何事かを耳打ちしてきた。
「I wanted to meet you all the time…How about you……NATI?」
「は?なに…っ?」
早口な上、ネイティブな発音過ぎてあまりよく聴き取れなかった。でも最後に言った「なち」というのは、もしかすると、やっぱり自分の名前だろうか。
……いや、とりあえず今はそれよりも。
「なんだかよくわかんないけど、さっさと離せっつうの!つーかおまえ――、誰なんだよっ!?」
「え……っ」
疑問を投げかけたのは紛れもなくオレの方なのに、何故か目の前の男は鳩が豆鉄砲を食らったかのように、大きく目を見開いた。整った美麗なお顔には、でっかくWHY?の文字が浮かび上がっている。
「嘘…もしかしてなっちゃん、俺のこと……覚えて、ないの?」
「はあ?覚えてるもなにも、オレ達初対面だろ。他の誰かと勘違いしてんじゃねえの?…いい加減手ェ離してくれない?」
オレ、一応先輩だと思うんだけど、君よりも。
遠まわしに年上相手に無礼を働いている事を指摘すると、イケメンは訝しそうに目を細めながら「ほんとになっちゃん、俺のことわからないの?」とのたまって、オレの肩を掴んでいる手に益々力を篭めてきた。
な、なんだよ……っ、知らねえよ、お前なんか!
第一印象はすごい柔らかな雰囲気で優しそうと思ったけど、真剣な表情で眉間に皺を寄せて凄まれると、なまじ美形なだけにやたら迫力があって、怖い。
妙に威圧感に気圧されそうになる。
ま、負けるな、オレ。相手は年下、本来ならオレは敬われて然るべき立場の人間なんだ。
怯む必要なんて全く無い。
後輩は目下の者、年功序列万歳!
……自分で自分を懸命に励ましながらも、無言でひたすら凝視され続けること、数十秒。
沈黙が異様に重苦しい。
周囲の好奇に満ち溢れている視線が全身に突き刺さって、痛い。
――――っだから、なに!?
ほんっとなんなのこの1年…!
「あ〜……お取り込み中の所、大変申し訳ないんだけど」
困惑の最中、それまで事の成り行きをただ静観していただけの周平が、言葉とは裏腹にちっとも申し訳なさを感じさせない端然とした声音で、突然何事かを切り出してきた。
持つべきものは、やっぱり親友だな。
よし、我が友周平よ!
早くこの意味不明な状況及び、正体不明のヤバい1年から、可哀想なオレを救い出してくれ…!
期待をこめたオレの切実な願いに、しかし返ってきたのはあまりにも無情な言葉だった。
「俺そろそろ行かないとバイト間に合わないから、先帰るな」
え!えええええ!!ちょ、お、おいこら!
まて、待てマテMATE!!、STOP!!
カムバックぷりーず!
「待って周平、オレも帰る!一緒に!今すぐに!」
大慌てでオレは懇願した。
しかしそれにいち早く返事をしたのは、既に背を向けて立ち去りかけていた薄情すぎる友ではなく、未だにオレの肩を掴んで離さない、例の男だった。
「なっちゃん帰るの?じゃあ、俺も一緒に帰る」
――――はい?!お前にいってねえんだけど!
それにさっきからなんだか人のことを馴れ馴れしくなっちゃん≠ニか気安く呼びやがって、オレには水嶋那智(みずしまなち)っていう立派な名前があるんだ。
後輩なら後輩らしく、礼儀を弁えて『みずしませんぱい』と正しく呼びやがれ、この馬鹿たれが!
いい加減にぶちぎれたオレは、目の前にいる無礼千万な男を両手で思いっきり突き飛ばした。
流石にこれは不意打ちだったらしく、男は数歩後ろによろけながら離れていった。その隙にオレはすかさず周平の後を追って走り出す。
「なっちゃん!」
なんかよくわからんけど、ここは逃げるが勝ち!
後ろを振り返らずに下駄箱まで全力疾走。
まるで鬼ごっこでもやってるみたいな気分だ。
ああでも、これはむしろストーカーに追われる哀れな被害者の方が近いかも。
…どっちにしろ、逃げていることには変わりないわけだから、男のくせにオレってば、情けない。
靴を履き替えていた周平の所まで辿り着いてから、背後を恐る恐る確認してみる。
………誰も、いない。
ようやく謎のイケメンストーカーもどき(イケメンなのにストーカーっていうのもなんか変な感じだけど)から解放されて、ほっと息を吐いた。
***
「あれ、どうしたんだよ那智」
「どうしたじゃねえよまったく。おいていくなっつうの!」
お前ほんとに薄情だよな!知ってたけど!
「いや、邪魔しちゃ悪いかと思って。…あれ、あいつは?」
「知らね。怖いから走って逃げてきた」
はき捨てる様に言って下駄箱から靴を取り出していると、周平はさも意外だという顔をして
「なんで、一緒に帰るんじゃないのか?あれ、大和(やまと)だろ?」
と、ものすごく当たり前のようにいった。
「は?え……、誰だって?」
「だから、さっきのあいつ。俺たちが小3のときに引っ越してった、1コ下の鈴木大和(すずきやまと)」
やまと。ヤマト……すずき、やまと…?
どっかで聞いたことのある名前だな……まあ鈴木はよくある名字だから当然だけど、やまとって名前の奴は、そんなに沢山いないよな。
覚えのあるらしいその名前を呟きながら、必死で記憶の糸を手繰り寄せる。
いっこしたの、しょうさん…、…やまと……
やま、と……
―――またいつか絶対に会おうね、なっちゃん。やくそく――――
ふと脳裏に甦る、過去の色褪せた思い出。
小3の8月、確かあれは夏休みの最終日だった。
「……え。えええええええ――――っ!!??」
大和って――――あの『泣き虫やまと』の事か、もしかして……!!
さっきの超イケメンが、マジで?
そんなわけないと思いつつも、自分の知り合いの中で『やまと』という名の人間は、世界で一人だけしかいない。
「俺も最初見たとき全然わかんなかったけど、お前のことなっちゃん≠チて呼んでたから。それで思い出した」
ああそうだ。確かにオレは昔、あいつにそう呼ばれていた。そしてオレの周りでその呼び方をする奴は、両親を覗くと大和だけしかいなかった。
「う、嘘…だって、全然別人だったじゃん…」
「まあ、8年も経てばなあ。多少変わっててもおかしくはないだろ」
「そりゃそうだけど。でもあれは多少どころか、極端に変わりすぎだろうよ…」
開いた口が塞がらないとはこういうことをいうのかと実感しつつ、幼少期を回顧する。
大和とは家が近所で、お互いの親同士の仲が良かったこともあって、昔から弟のように面倒を見てきた奴だ。
小学校に上がってからは周平とも仲良くなって、三人でよく遊びに行ったりもしていた。
1歳しか年は変わらないのに、オレよりもずっと背が低くて、身体も気も小さかったやまと。
ひとりっこだったせいか、かなり人見知りが激しくて、同級生からよく虐められては、男のくせに泣いてばかりいた。だからあだ名が『泣き大和』。
……正直、はっきり覚えている大和の印象はこれくらいしかない。
だけどさっきのあいつは、オレを見下ろすくらい身長高かったし…身体もオレの一回りくらいは余裕で大きかった。
おまけに同性のオレですら、うっかり見とれてしまうくらいのいい男で、昔の面影なんてまるで残っていなかった。
どうしてもあの『泣き虫やまと』と、『長身のイケメン男』がイコールで結びつかない。
納得がいかず胸がもやもやムズムズするというか、何ともいえない複雑な心境に陥っていると、
「――いたっ、なっちゃん!やっと見つけた…!」
懲りずにオレの後を追いかけてきたらしいストーカー、もとい大和らしき人物に、今度は突然後ろから羽交い絞めにされた。
予期せぬ背後からの襲撃に慌てふためき、思わず喉から恐怖の悲鳴が迸る。
「うわああっ!!」
ちょっ、く……苦しい!
「なっちゃん、どうして逃げるの?」
背中越し、密接した身体から相手の切なそうな声が伝わってきて、どきりとする。
「やっと会えたのに…逃げるなんて、ひどいよ…」
「……ッ…」
詰る言葉と一緒に吐き出された熱い吐息が耳にかかって、やたらくすぐったい。
その感触から逃れたくて、胸に廻された2本の腕を両手で引っ張ってみたけど、制服の生地がむなしく伸びるだけで、肝心の腕は全く動かなかった。
くっそ、なんでこいつ、細いくせにこんなに力があるんだよ……!
「……っみ、耳元で、しゃべんな…っ!腕、離せ…って」
「嫌だ。だって離したら、また逃げちゃうでしょ?」
「……もう逃げないから。……なあ、お前…本当にやまと、なのか?」
半信半疑、どころか8割5分以上の疑いを含んだオレの問いかけに、奴の腕の力が一段と強くなる。
「っちょ、ちょっと…!」
だから、苦しいってば。痛いんだよこの馬鹿力!
「……やっと思い出してくれたんだ。そうだよ。なっちゃん、久しぶりだね」
「あ…お、おお……ひさしぶ、り…」
ぎこちなく返事をすると、拘束していた腕がようやく解かれた。後ろを振り向いたら、大和はさっきと同じ「I wanted to meet you all
the time(ずっとあなたに会いたかった)」という言葉―――今度は、ばっちり聴き取り成功。本来なら英語は一番の得意分野なのだ―――をオレの耳元に囁いて、にっこりと笑いながら、何故か目を瞑った。
――――――え?
目を閉じても持ち前の端正さは失わず、どこか幼さを残したような甘さの漂う秀逸な造形美に目が釘付けになっていると、マシュマロを連想させるような柔らかくて優しい感触が、頬の上に落ちてきた。
「―――――!?」
うわああああ!!いいいいま、いまいまいまっ、こ、こいつ、ほっぺにちゅー、した…っ!
顔面に火が点けられたように熱が一気に集まってくる。
自慢じゃないが生まれてこの方、キスなんて素敵なものには、ただの一度もご縁の無い質素な人生を送ってきたオレにとって、これは物凄く衝撃的な出来事だった。
たとえその相手が、見ているだけで和やかな気分になれる可愛いらしい女の子ではなく、昔からよく知っている(といっても、小学校低学年までだけど)男だったとしても、だ。
「な、なっ、何してんだよ、お前っ!!」
完熟トマトを顔面に貼り付けたような状態でオレが声高に言うと、大和はきょとんとした顔をして、目を瞬かせた。
「……何って……ただの挨拶だけど」
あいさつだとお!?コレのどこが…!!
人様の肌に何の許可もなしに粘膜接触を試みる事の、なにが挨拶なんだ!?
そういやこいつ、アメリカ帰りだとか周平が言ってたっけ。暫く会わない間にすっかりアメリカナイズされやがって……!
「っざけんな!ここはワビサビ重んじる奥ゆかしき国NIPPON!こんな破廉恥な挨拶があってたまるか―っ!」
「は、はれん、ち……?ワビ、サビ……って。あははははは!!」
いいねぇなっちゃん、チョーサイコー、と大和は目尻に涙を溜めて、腹抱えながら笑っている。
なんでそこで爆笑?!
至って真面目にいったのに……オレんこと馬鹿にしてんのか!
「もういい、帰る!」
「………あ、ごめん。そんなおこんないでよ」
すっかり臍を曲げたオレは、口元を歪めて笑いを堪えながら謝る誠意の欠片も無い大和を無視して、今まですっかり存在を忘れていた周平の姿を捜す。
「あれっ、周平――――?」
その辺にいると思ったのに、近くを見渡しても姿が見当たらない。
「周平なら随分前に帰ったけど」
「えっ、マジで!?」
「うん。オレが来てすぐに。気づいてなかったの?」
がーん。全然気づかなかった……
なんだよ、先に帰るなら帰るで、挨拶くらいしていけよ……あいつはもう――ほんっと、腹の底からとことん薄情な男だな。
嫌って云うほどわかってたけどさ。だから別に、いいんですけどね!
……あ〜。なんか力抜けたなあ。おまけに腹も減ってきたぞ……
「ね、これからちょっと時間ある?」
「ああ、なんで?」
「帰りにどっか寄っていかない?駅前のマックとか。色々話もしたいし」
うわ、なんでこのタイミングで誘うかなこいつ。
しかもマックって。ついさっきまで行く気満々だった場所なんですけど、そこ。
ビッグマック食べたかったから、その提案は非常にタイムリーでグッジョブ!……と言いたい所だけど、一つ問題が。
「マックは行きたい。……けど、」
オレ今日周平にバターバンズ奢ったせいで所持金ほぼゼロだから、無理。
そうお断りの意思を告げようとしたら、「じゃあ行こ!」と笑顔全開の大和に先手をとられてしまった。
「今なら期間限定で月見が出てるよ。なっちゃん、あれ好きだったよね」
「月見?!すきすき!そっか、もうそんな季節なのかあ」
「うん。懐かしいね……丁度8年前の引っ越す前の日もさ。あと3日で発売なのに、オレが次の日に引越しするから、もう一緒に月見食べられないーって、なっちゃんが泣いたの今でもよく覚えてる」
「…そ、そうだったっけ……」
そういえばそんなことがあったような……うわ、超恥ずかしいな、昔のオレ。
「日本のマック行くの、8年ぶりだよ俺。味変わってないといいなあ…」
「味は…変わったかどうかはわからんけど、ちゃんと美味い。特に月見は期間限定にしておくのが実に惜しい一品だ」
「あは。そうだよね、ビッグマックより月見の方が好きだもんね、なっちゃんは」
「そうなんだよ、だけどなんであんな美味いのに、月見って定番にならないのかなあ…」
長年疑問に思ってきた事を零しながら、思い出の品を求めて目的地へ向かう。
こうして8年ぶりに果たした大和との再会は、マックの定番メニュー談義で幕を開けた。
***
「久々に食べたけど、すっげえ美味かった!やっぱ月見は最高だなー!」
適度に冷房が効いていた店内から一歩出ると、残暑の残る湿り気を帯びた生暖かい空気が全身に纏わりついてくる。来たときはまだ明るかったのに、辺りは既に暗くなっていた。
腹ごしらえをしてちょっと話をするだけのつもりが、予想外に昔話に花が咲き、気づいたら大好物の限定品を片手に2時間近くも店に居座ってしまった。時刻は既に夕方の7時を回っている。
「でも8年前に比べて結構メニュー変わってたのはびっくりしたな。チキンタツタが定番から外れる日が来るなんて、昔なら考えられなかったけど」
「値段もかなりプライスレスになったしなあ。一時はハンバーガーが100円以下って時もあったんだぜ?」
「へえ。それはすごいね、コンビニのパンより安いじゃん」
「なあ。……あ、そうだ。さっきのマック代、明日返すから」
支払いの時に借りようと思っていた代金は、オレが先に言い出すよりも早く大和の方から「俺が誘って、付き合ってもらったんだから、これくらい当然」と有無を言わさず強引に奢られてしまった。
レジ前であまり揉めるのはみっともないので、とりあえずその場は保留にしておいたんだけど。
「え?なんで。いいよ、別に。」
「いや、そういうわけにはいかない。オレお前より年上なんだし」
それに状況から考えたら、むしろオレの方がこいつに奢ってやる立場だったはずだ(一応、再開祝いを兼ねて御馳走くらいしてやるのが、幼馴染として当然のことだろう)。
これが周平だったら、また話は別だけど。あいつには多方面で貸しがあるから。
「あはは。そういう所変わってないね、なっちゃん」
「そういう所って?」
どういう所だ。具体的に、且つ簡潔に説明しろ。目を光らせて詳細の開示を要求すると、
「ん〜?なんか律儀っていうか、義理堅いっていうか。年功序列とか、年上の威厳を気にする所とか、ね」
意味深な含み笑いを以って、大和はそんなことを言った。
む。融通利かない堅物でどうもすみませんね、昔も今も。根が真面目なんだよオレは。
「それが何か悪いかよ」
「全然。俺が覚えてる昔のなっちゃんそのまんまで……すごく、」
急に横に並んで歩いていた大和の歩調が止まり、言葉が途切れた。
「…………?」
つられて足を止めたオレは隣を見ると、大和はなにやら真剣な面持ちでこっちをじっと見つめている。
え、なに、なんだ……?
恥じらいも無く真っ直ぐに注がれる視線が、妙に熱っぽく感じて、ドクリと心臓が跳ねた。
なんでオレは、男相手に…しかも大和なんかに、ドキドキしてんだ……
「…なっちゃんは今、誰か好きな人とか…付き合ってる人、いる?」
「へ…っ?な、なんだよ、急に…」
唐突すぎる話題転換に一瞬目が点になった。
さっきまでマックの話してたんじゃなかったっけ、オレ達。何でいきなりそっち系の話?
前後の会話に何の脈絡も無いその質問に、どう答えていいか思案する。
いや、別に答えに困るような素晴らしい恋愛事情があるわけでは決してないのだけれど。誠に残念ながら。
「そういうお前はどうなんだよ。向こうに彼女とか、沢山いたんじゃねえの?」
ただでさえこの容姿だ。引く手数多なのは容易に想像できるし、ましてやアメリカなら色々なことがこっちよりも進んでるっていうし。
少しのアイロニーを含んだオレの揶揄に、大和は気まずそうな顔をして視線を逸らした。
「……まあ、それなりにいたけど。こっちに引っ越して来る時に、全員ちゃんと別れたし。遠距離になってまで続けたい相手はいなかったよ」
それなり、って。おいおい、そこは否定しておけよ、一応。しかも全員って…一体何人とお付き合いがあったんだ?
そんなのだまってりゃわかんないのに、わざわざばらすなんて変な所で馬鹿正直だな。
外見こそ過去の面影を全て払拭する程の、見事な変貌を遂げていたわけだけど。
数時間話をしてみて、会話の端々にオレのよく知る昔の大和だなあと感じる所が多々あった。
もしかしたら外見ほど、内面や元にある性格までは変わっていないのかもしれない。
「それで、なっちゃんはどうなの。いるの?いないの?」
「え?あ、あ〜…や、別に。特に今は、これといっていないけど…」
本当は今は≠ニいうのは誤りで、 今も昔も≠ニいうのが正しいんだけど、まさか十七年間誰ともお付き合いした事ありません。だなんて、格好悪くて言えるはずもない。
「本当に?――――っシャッ!」
オレの返事を訊いて、何故か大和は物凄く嬉しそうな顔をして右手でガッツポーズをした。
「あ?なんだよ?」
そんなにオレが一人ぼっちなのが嬉しいのか、お前は……どうせオレは昔と変わらず、平凡な普通男だよ、フンッ!
8年の間に長身色男に成長したお前と違って、全然モテねーよ、ケッ!
「あっ、なっちゃん、ちょっと待ってよ!」
理不尽な怒りに任せて、歩くスピードを速める。
自分では結構早歩きのつもりなのに、僅か1メートルの差が一瞬出来たくらいで、さっきまでと全く同じペースで歩く大和に速攻で追いつかれた。
あれ……?もしかして、こいつ……
そこで始めて、隣を歩く男が今までオレの歩調に合わせてゆっくり歩いていたらしい事に、迂闊にも思い当ってしまった。
……なんだよそれ、もしかしてレディなんとかのつもりなのか、とオレは内心憤慨する。
口を盛大なへの字にしたまま、横目でチラッと大和を窺った。
ほどよく筋肉のついていそうなバランスの良い痩身、そして日本人離れした長い足が目に映る。
そりゃ、ま、こんだけ足の長さが違うんだから、歩幅が違うのも無理ないか、と諦念の入り混じった溜息を吐いた。
「……お前、いま身長何センチくらい?」
「身長?確か、半年前に測った時は181だったと思うけど」
げ。半年前で既に180越えかよ…見る限り、多分今はそれより3センチは高くなっているはずだ。
畜生。オレ先月測ったとき、172だったぞ!
成長期もそろそろ終盤に差し掛かっているというのに、このまま成長止まっちゃったらどうしよう…
「お前も周平も、昔はオレより小さかったくせに。なんでオレだけ…」
ぶつぶつと小声で愚痴っていると、その呟きを聴き取った大和から、さっきまでの笑顔が消えた。
「……周平って、何センチあるの?俺よりも、背ぇ高い?」
「ん〜そうだなあ…お前よりちょっとあいつの方が高い気がするから…186か、7ってとこか?」
全く以って、やるせない。
もし180以上あるこいつらに両隣に立たれたら、まるで川の字じゃねーか。
「……なっちゃんは高校も中学もずっと一緒なんだよね、周平と」
「中学一緒なのは、同じ学区内だから当然な。高校も一緒だけど、成績は思いっきりピンとキリだぜ?あいつ学年でもトップクラスから先ず外れた事ねえし」
そしてキリのオレは毎回赤点ギリギリライン。毎度周平の優秀なノート様にお世話になっている。
「そうなんだ……悔しい、な」
ポツリと、つい口から零れてしまいました、くらいの小さな囁きに近い声で、大和は言葉を噛み締めるようにして言った。
え、悔しい?……って。
……周平が成績優秀なのが、ってことか?
「お前だって、随分お勉強出来るらしいじゃん。うちの学校レベル高いし、入学試験難しかったろ?」
「まあね。でも必死で勉強したから。こっちに帰ってくる事がわかった時、絶対になっちゃんと同じ高校に行くって、決めてたし」
迷いの無い口調ではっきりという大和の目には、断固とした強い意志が宿っている。
「それに勉強だけじゃなくて、他にも色々自分なりに努力したよ。身長伸ばすために毎日牛乳呑んだり、髪型とかも色々考えて、どういうのが似合うのか研究したり」
ファッションについては、『現場で学ぶのが一番いいから』という理由で、モデルのバイトをしていたことも、明かした。
16歳にして既に完成されている、優美な外見その他諸々は、一朝一夕の賜物ではなかったらしい。
「…ふーん、それはまた、」
大変なご苦労ですこと。そうまでしてモテたかったのか、お前。随分と気合入ってるじゃん?
感心半分、茶化し半分のつもりでオレが言うと、スッと目を細めた大和は「だって、」と前置きして、その場に立ち止まった。
「なっちゃんと約束、したから。…あの日」
「え……」
「今度会う時までに、俺が一人でちゃんと勉強も運動も出来るようになって、皆から認めて貰える様な一人前の男になってたら……そしたら、なっちゃん、俺の恋人になってくれるって―――そう言ったよね?」
「――――はっ?!え、なに?」
何か今とんでもない言わなかったかこいつ?
特に、最後の方…!
「あの、オレ今物凄くありえない聞き間違いしちゃったみたいなんだけど。あはは。わりぃ、もう一回言って貰える?」
あはは、あはははは。
引きつった笑いを口元に張り付かせながら言うと、大和は「だから、なっちゃんが、俺の恋人になってくれるっていう、約束だよ」と、一番間違いであって欲しかった所だけをわざわざピックアップして、繰り返し言葉にしてくれた。
うお、き、聞き間違いじゃなかったのか!なんだそっかよかったよかった……じゃなくて!
「なんっだそれ?!恋人?そんなん無理に決まってんだろ、意味わかんね!」
思わず声を張り上げて反論の意を唱えると、大和はムッとした顔をして、更にオレを驚愕させるとんでもない返答をしてきた。
「無理じゃないよ、全然。本当はなっちゃん、俺と結婚してくれるっていう約束だったんだ。でも男同士は結婚出来ないから、じゃあ恋人なら、大丈夫だからって。……泣きながら俺の服掴んで、恋人作らないでずっと待ってるから、早く帰って来てくれって言ったの…なっちゃんじゃないか」
ひぇえええ…なっ、なんだ、その、恥ずかしすぎる台詞は!ほ、本当にオレが言ったのか…?
もしも、万が一それが真実だというのなら、今すぐにでも羞恥で死ねそうだ……
「……覚えてないの」
上あがりではなく下さがりに発音された大和の言葉は、あきらかに疑問ではなく、怒りの度合いを示している。
いや、正確には怒りを含んだ、悲しみとか、遣る瀬無さとか、そういった憐憫を誘うものが混じり合ったものだ。
「…や、その…、覚えてない、っていうか……」
断片的にしか記憶がない。大和の事も忘れていたくらいだし…そんな8年も前の事を一々覚えているはずがなかった。
はあ、と肩を落とした大和に「俺の事も、わからなかったっていうよりは、忘れてたの?もしかして」と落胆の表情で問いかけられる。
「…あの……ごめん、大和」
忘れていた事は事実なので、ここは素直に謝っておこう。そして謝るついでに「でもわからなかったっていうのも勿論あるぞ!」と、無意味な言い訳も一応付け足しておく。
必死で弁明しているオレを見て、大和の表情が渋面からややあって苦笑に変わった。
「…まあ、仕方ないか。8年も会ってなかったし。今日が本当のスタートなんだと思って、頑張る」
なにやら吹っ切れた大和の様子を見て、一先ず安心する。…ただ何か、ものすごく重要な事を忘れているような気がするんだけど……あれ?
なんだったかな。
思案しかけた所で「あーあ、もう着いちゃったね」と声が掛けられた。
「え?」
地面に向けていた顔を上げると、そこには見慣れた風景がある。雑談している内に何時の間にか我が家へ到着していたらしい。
ぼんやりした頭で、あ…ああ、じゃあ、またな、と適当な挨拶をして家の中に入ろうとしたら、制服の裾をツンツンと後ろに引かれた。
「なんだよ?」
「……あのね。さっきのマックの代金なんだけど、やっぱりもらってもいい?」
「え?ああ、だから最初から払うつもりだって言ってんじゃん」
今持ってくるから、ちょっとそこで待ってて。
そういって踵を返そうとしたら、腕を引っぱられて正面から向き合う形になった。
「うん。じゃあ、早速」
やや早口で紡がれたさっそくのく≠フ字が言い終わると同時に、素早く背を屈めた大和に、本日二度目にして……今度はなんと、あろうことか唇に、直接的な粘膜接触を図られてしまった―――
「…っ!!お前、なに…っ!」
呆然として唇の感触が残る口元を両手で押さえる。驚きすぎて、心臓が今にも爆発しそうだ。
怒りの噴火5秒前のオレに対し、大和はまるで涼やかな清流のように落ち着いた声音で、
「だから、代金。現物支給でもらっちゃいました。……ご馳走様、おいしかった」
悪びれもせずに言って、無邪気さの溢れる、大変素晴らしい喜色満面をみせた。
「おおおおおまえ!お、おっ、おいしかったって、ご馳走様って…っ!」
なんてことしてくれんだっ、オ、オレの、大事な、だいじな、ファ、ファースト・キスを!
「だって恋人なら、コレくらい当然でしょ?」
「!?――――恋人って……あっ」
そうだ、思い出した!さっき何か忘れてると思ったの、それだよ、それ!
「なあ、その恋人って、どういう意味なわけ。まさかその…マジでいってるわけじゃ、ないよな?」
恐る恐るなされたオレの質問に、大和は一瞬口を紡ぐと、一歩前に進んで距離を縮めてきた。
な、なんだよ、と若干怯えながら至近距離で見上げると、オレの顔を覗きこむようにして目線を合わせてくる。
「目茶苦茶マジだけど。…俺、なっちゃんの恋人になりたい。どういう意味って、具体的にいわなきゃわからない?」
強い瞳に射抜かれるように見つめられて、心臓が勢いよく跳ねた。黙って頷くことしか出来ない。
「なっちゃんに触りたいし、キスがしたい。勿論、それ以上のことも。いつも俺が、なっちゃんの1番でいたいんだ。……冗談なんかじゃ、ないよ?」
「………………」
真顔で熱心に伝えてくる大和の言葉を耳に流し込みながら、言われたことを頭の中で考えて…早々に思考停止した。
これはもう、開いた口が塞がらないどころじゃない。開けっ放しの口から魂が抜けてしまいそうだ。
茫然自失のオレに、
「だからなっちゃんも、これから覚悟してね?」といって大和は再び顔を近づけて来た。
「―――!!!???」
不覚すぎる三度目のキスは、二度目と同じく唇でなされた。でもさっきとは違って、ただ口と口を触れ合わせるだけでは終わらなかった。
「……ン…っ…んン…っ」
今度のキスは、柔らかく押し付けられた大和のそれが角度を変える度、やんわりと唇を吸われて、時々食まれたりする。それがとてもくすぐったくて、何故か背筋がゾクゾクして、身体から力が抜けてきてしまう。
オレが抵抗しない(というか、出来ない…)のをこれ幸いと、大和は何度も執拗に口付けを繰り返した。そして息も絶え絶えになった頃、ようやく解放されてほっと息を付いた瞬間、名残を惜しむかのように唇の表面を舌で撫でられてしまった。
「……ッ!いいいいいまいま、くくくち、くち、な、なめ…っ!」
もう卒倒寸前で呂律もマトモに回らない。初心者には色々と刺激的すぎるキスだった。
「うわ。かっわいいなあ……なっちゃんすごい、顔真っ赤だよ」
「お前のせいだろ!おお、おまえっ、こ、こんなの、一体どこで覚えて…っ」
……きたのかなんて、きくまでもない。愚問だった。
そんなのアメリカにいた時に決まってる。しかもこいつ、相当遊んでやがったな。
いくらオレが未経験とはいえ、それが容易にわかってしまうくらいには、ものすごく手馴れたキスだった。…そしてこれは経験者じゃないからあまり定かではないけれど……多分、すごい上手かった……く、くそ、オレよりも年下のくせに……!
大和のくせに!
理不尽な憤りを感じ、多大な羞恥で真っ赤になっていると、
「あはは。じゃあねなっちゃん、See you again tomorrow,Goodbye!」
憎たらしいくらい流暢な英語と気障ったらしいウインクを残して、大和は気分も上々に颯爽と帰って行った。
「しーゆう?ぐっばい…?っここは、アメリカじゃねえ!挨拶くらいちゃんと日本語で言え―っ!」
人目もはばからず大声で叫ぶと、『なに大きな声だしてるの那智!近所迷惑でしょ!』と玄関の向こうから母親の声が返って来て、ぎょっとする。
ぎゃああ!し、しまった、うっかり忘れてたけどそういえばここ、自分の家の前でした……トホ、ホ。